美(ちゅら)さ沖縄  佐野豊子

もう未来見えない日本そのはなのもっと見えない美(ちゅら)さ沖縄

空暗く鳥きしきしと羽博(はう)つなりヤハウェわが神われら生きたし

なんとなく隠しもちたる裂布(さいで)あり祖母の紅型(びんがた)木綿なれども

その山は歌の香久山その山は琉歌の神すむ恩納岳 撃つな

いま思う一心のちから恋をひめ醜女舞たる太き足腰

佐野豊子は「ていだ(太陽)」によって改めてその出自のかなしみを問い直すことに情熱を燃やした。戦火に洗われて消えてしまった家系、ことに祖母の育みによって養われた心の沖縄を取り戻そうと「琉舞」の稽古を復活した。彼女はクリスチャンであるが、その信仰はどこか古代的な琉球の祈りと無縁ではない。その原点の沖縄がしだいに熱く体の中に甦るのが感じられる。   馬場あき子先生評

赤児のやわ髪  NAOKO

千葉のビル冷え冷えと建つ買い物へSOGOの中に入り行きたり

返り来て椅子に座れば夕五時の市からのメロディ市民われ

上階の若い奥さん三人目の赤児を抱きぬ退院したと

生みたての卵のように初々し赤児を見ればふわっと笑う

令和の代生まれ来し子よ母の胸に無心に眠る赤児のやわ髪

彼方なる記憶   NAOKO

師走きて西の青空ちぎれ雲赤く染まりて甘やかに見ゆ

大阪の万博思う遥かにて太陽の塔今も浮かべり

産土の綾部に帰りしことはなし三歳までの由良川の景色

古寺の隣の家の二階より這い降り出でて姉を泣かせし

ニュースあり。そうかあれから五十年自刃果たせし三島由紀夫は「昭和45年11月25日没」

G・ケイオス通信(昭和41年11月)no37号       11月合評作品集

少女らの両股(りょうあし)の返(そ)り羞恥なくジャンプするとき清(すが)し声あぐ

いつよりか沈黙を主義となす吾の暗礁(いくり)の上に波白く立つ

軒低くひそまりて寒き夜の町熱高き吾子をかき抱きゆく

いま癒えて真弓(まみ)の凝視めるそを見れば松笠揺れて青空の中

大昔のうたである。上2首は祐次氏の歌である。互選での点数は少女らのジャンプンプの歌は1票であったが波白く立つは7票獲得で支持率は高い方であった。私の吾子をかき抱きゆくは6票で、松笠ゆれては2票であった。まつかさは松毬だったのかなと今は思う。私は松笠揺れて青空の中の歌の方が好きである。そのほか佐藤慶子さん高野公彦さんの歌などこのころから芽が出ていたのだと思います。次回上げておきます。もう交流がなくなった人ばかりだ。亡くなった方もいらっしゃる。あっというまに過行く時を今は実感している。

短歌研究年鑑(2021年版)    mohyo

言葉こそ大事あなたは強いねと言われ素直に聞きてをり

東京弁冷たくきついと気仙沼の友帰りたり三十年前

青森弁語らふ男女の輝きて方言の持つ優しさ知りぬ

20歳のころの思い出を歌にしたものです。気仙沼の友だちから東京弁冷たいと言われショックをうけました。他の人もいわれたそうです。東京弁といっても下町の威勢の良い言葉お屋敷まちの「ざーます。」言葉ではかなり違うと思った。標準語ということばもあったが共通語が良いのではと思った。参勤交代で全国共通の言葉ができて良かったのではとも。暫く手紙のやり取りはあったが今ではなくなって久しい。私も77歳 1月には78歳になるどうしているかなあ。それからアルバイト先で物を取りに行ったら私に気づかない若い男女があきらかにささやきあい愛を告白しあっているようだった。私は悪いからと動けなくなった。優しい響きだった。

   「市川」を詠む       空っ風                                       

福寿草春の気配ぞ水木洋子邸(みずきてい)書斎ゆ眺む庭の日溜まり

老木の伏姫桜の黒き幹根本の瘤に小枝の一輪

白秋も詠みし真間川何処かと探して足止む桜花周遊

小旗振りウオーク順路を誘導す国府台緑地の木々は芽吹きぬ

八幡(はちまん)の宮居の参道(みち)に日和下駄音ひびかせてけふ荷風忌

風ひかる〈江戸川ウオーク〉の先頭は人影小さく市川橋(はし)渡りゆく

国府台砲車の軋むまぼろしは戦争遺跡をめぐる夏の日

声明(しょうみょう)の調べは凛とこだまして澄みのぼる月は祖師堂照らす

行徳の小さき酒房のジャズライブ冬の月光玻璃戸ゆ届く

江戸の旅笹谷うどんを啜り食い舟出す船頭(おさ)の声は幻聴(まぼろし)

 市川は、自然と人が資源だといわれ、文化的・歴史的資産の豊かな街である。古来より多くの文学者が訪れ、数多の作品を残している文学の街でもある。               この市川に生活の基盤を置いて三十年・・・・。妙趣ある市川の自然と歴史・歳時等々に触れて時折、拙い詠草の歌材にしている。                                  「市川市稲門会会報」復刊11号(通巻18号)平成30年5月1日

    

    

  

秋晴れ   JUN

秋晴れや生きた証の家庭ごみ

犬と踏む落ち葉の声や朝まだき

不登校のこの子にも降る月明かり

病癒え町を歩めば秋の色

きんもくせい星屑の如こぼれをり

平成27年(2015年)8月15日敗戦記念の日、東京九段の靖国神社を訪ねた。     空っ風

 戦後70年目の敗戦記念の日、八月十五日 靖国神社問題の実相を知るべく早朝より同社を参拝し、終日境内に身を置き同社探求と人の動きに注目、見聞を広めた。激しい人の動きの中、暑い一日が終わり神宮の森に陽が沈むころ、靖国神社の大鳥居をあとにした。

戦争と平和を思惟する夏の日は長き一日八月十五日

九段坂駅を出ずればヘルメット防弾チョッキのポリスら並ぶ

靖国神社(やすくに)へつづく人混み街宣車アジ演説の声錯綜す

反共も九条の会もチラシ撒き己が立場の主張を叫ぶ

イデオロギー 主義か思想かさまざまの会派の呼びかく靖国の前

炎天下大鳥居(とりい)くぐれば粛々と遺族の列は祈るひとびと

『戦没者追悼式』の放送に境内の人ら足止め祈る

十五日正午の時報ひびくとき静かに黙祷皆足とめて

英霊の遺族ら老ひて参拝は孫・子の多し戦後世代に

遺族らか昇殿参拝待つ人の和洋の正装黒の行列

横並び10列の人ら炎天下五十メートル余に粛々と待つ

軍刀(とう)を吊り軍服姿の参拝に鎮座す英霊感想や如何

ハモニカに合わせ軍歌を歌ひゐる十重二十重の円陣の群れ

靖国神社(やすくに)の実相つぶさに知るべくを境内で過ごせし暑き長き日

夕あかね 靖国神社(やすくに)の森つつむころ大鳥居背に家路に向かふ

鳳凰の花   佐野豊子

沖縄の国立劇場おおらかな魂(まぶい)をたまえ舞わんこの身に

悲しまず腰の故障を受け入れん舞いのなかまはよく食べ笑う

ひとの死にあうこと多し祈りても一曲一曲舞いたきものを

死は人の数だけありてわが母の糸満冨美子の死もただ一度

検索の沖縄料理コピーする食べず知るのみ猪(いな)ムドチ汁

教会は世間の縮図ほどほどに生きて非力な牧師の妻われ

豊子さんは11月6日に癌手術を受ける毎日私は祈っているコロナで家族も入れずに一人でうけてくるそうだ。頑張ってほしい。上の歌はまだ若かったころ馬場あきこ先生からはげまされて歌集『鳳凰の花』の表紙に書いてくださったお言葉で感謝一杯の私である。豊子さんがんばれ!!

「佐野豊子さんは琉球舞踊の正統を守る渡嘉敷流のよき舞手である。厳正な舞の稽古のなかに短歌を作る時間があることが、双方にとって幸福な関係をなしていることを思う。そして佐野さんは沖縄の現実を決して忘れてはいない。魂の原卿である沖縄への愛と悲しみをもって平和を希う祈りとして舞を捧げるのである。またクリスチャンでもある佐野さんは教会の仕事にもたずさわる信仰の人だ。それらが混沌として融け合う歌境を目指しての未来があることを祈ってやまない。」 馬場あき子