短歌と感情 宮 柊二先生 (10)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より
抜粋

人間には目があって、足があって、外貌がそなわらないと人間にはなれない。人間には、人間として認められる共通な外貌がなければ、人間にはなれな
い。それ
と同時に、人間の血が流れていなければ、生きた人間ではない。外貌も血も、人間としては誰のも等しく同じだが、仔細に見ればみんな違う。違うから
ABCD・・・という個々の別がある。その違う中には外貌の形、格好から、また体格から、さらに血液型まで、ことに感情、それらのひとつひとつが違う。詩
歌を好む人と関心のない人、自分で作る人、作らない人の違いもあると共に、形が一つに定まっている短歌をつくりながら、つくる人によって内容が皆違うとい
うことも、今の例に似ている。

いろいろな人のいろいろな詩があってよいし、形は同じでありながら人間の一人一人が違うように内容(なか
み)の違う短歌の生まれることも面白い。詩や短歌を好んだり作ったりする人は、感情の豊かな人に多いよう思っている。感情の豊かな人間は、原始的な純粋豊
かさにいつも郷愁を感じている。そういう人が詩歌に心ひかれ、いま申したそれぞれの違いに従って、個性の違う詩歌を生んでゆくのである。

短歌は形式が定まっている詩で、皆さんに或いは、作りにくい、うたいにくい詩なのかもしれない。形式があるということは、大人ということでもあり短歌は大人の詩と呼ぶことができると思う。

大人の詩とはどういう意かというと大きな法則を自身で持っている詩だということで、その法則ということをこう言ってもよい。従わせるのが法則なのか
かくあ
りたいと考えさせるのが法則なのか、厳密な意味では従わせるのが法則であるが詩では、かくありたいと考えさせる願わせる、つまり表現上の効果で願求するも
の、その一つに表現形式がというものがあって、それを持っている日本の詩が短歌である。

短歌の五句三十一音数という詩形式は、日本語にとって非常に美しい厳しい高い詩の形式である。

凧は風さえあれば、どんどん自由に上ってゆきたいのである。しかし地上で綱を持っていて、その凧の自由と欲望抑制している。力学の問題でしょうが凧
は、空 中に安定して浮かんで実に美しい。もし綱がなければ、凧の自由に任せれば、凧は空中はるかへ飛んでいって落ちてしまう。

これは誰かの言った
例え話を借りたのであるが、選んで、努めて、自分の法則を持っている、それが短歌は自分の詩の形式を持っているということである。作品の内容や材料やその
他に比ぶべき凧の大小、絵図、綱それらはみんな変わっていて一向に差し支えない。ただし一番大切な綱を持つ地上の者が、その凧と風との相搏つ力を承知しな
がら、凧をあげるための法則に従わなければならない。そういうことである。

短歌と感情 宮 柊二先生 (9)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋

名をあげてストーブおくれよと笑いつつ師がいえばわくストーブおくれよ

「名
をあげてストーブおくれよ」っていうのは、つまり有名になって偉くなってこの学校にストーブを寄贈しろよと先生がおしゃったという意味である。今、君たち
は定時制の生徒だけれども、一所懸命に働いて有名になってお金持ちになれ、立派になれ、そして立派になったら君たちよ、今この寒い教室にストーブを寄贈し
ろよとおっしゃった。そしたら、みんなが、どっと笑った。

こんな歌、皆さんは、いい歌だとは思われませんか。僕はとってもいい歌だと思う。この作者は今はお母さんである。お母さんになっても歌を作っている。だんなさんは自動車の運転手をなさっているらしい。

お二人は良く喧嘩するらしい。夫婦喧嘩を。喧嘩をしても、怒っても、彼も一所懸命にお客さんを乗せて、努めて、神経を使って帰って来るんだなあと反
省する らしい。そういう歌を作るんです。そして単純に喧嘩なんかしちやいけないななんてそんな歌も作ったりつまり雄雄しく生きて行っているのである。

この女生徒は、今 二十二、三歳になり雄雄しく働いている基礎には、歌をうたい歌を作るということが、根本にあるのではないか。歌うことによって、生まれながらの純粋が甦ってきて、その人間をまた新しい力強いものに立て直してゆく。

つまり、人間の輸血のような力が、歌をうたい歌を作るという行為の中にあるようなきがするのである。

短歌と感情 宮 柊二先生 (8)

歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋

充血せし眼が痛しと涙たむる電熔工の友とならんで学べり

昼間電気溶接をして働いている友だちと席を並べて学ぶという歌でえある。

私は日本で一番大きな定時制校だという学校の校歌を作ったことがある。その学校の見学に行った。ある教室の外を廻っていると一人の生徒が眠っており隣の生徒は黙って学んでいた。先生も黙って講義をしておられた。

眠っている生徒を起こせば良いのだが隣の生徒は疲れているんだからと起こさない。先生も二人の生徒を黙認して授業を進めておられる。学んでいる生徒は、自分で勉強したノートを後で寝ている隣の友人に見せてやるんでしょうね。

授業が終って夜の遅い廊下なんかで会うと、皆がキチンと挨拶をする。「さようなら」 「失礼します。」とか。許しあう世界、いたわりあう世界、礼儀の世界がちゃんとある。

その後校庭にこうこうと電灯をつけて男女生徒何百人が「佐渡おけさ」他を歌いつつ踊ってみせてくれた。実にきれいだった。若い団結というのはあんなに奇麗なものかと思った。その後壇上に立たせて頂きブラバンの行進も見た。堂々と行進した。

そのあとで生徒諸君と座談会をした。
「どういう校歌を作ってほしいのかあんたたちのきぼうをいいなさい。」そのとき「実は先生さっきの楽器はぼくらが買ったんじゃありません。この学校のそばにある工場からもらったんです。」

「音楽も先生から習ったんではありません。ぼくら、よそのつまり昼間の学校のブラスバンドをもっている学校に録音機を持って行って、採ってきた。そのテープを学校に持ち帰りそれで勉強した。古い楽器の壊れているところは直し自分たちで採取し、本日聞いていただいた
程度の隊伍を組んでやるところまできたのです。」

何処に出しても負けないバンドであり奏楽であった。

私は感動して、そこの学校の校歌を作った。

kokuga

 

 

「國画会」の絵画、写真、彫刻に
友と二人で勝手な批評す
(満智子)

(原作)
「國画会」絵画写真と彫刻に友と二人で勝手な批評

(アドバイス)
歌を読みやすく整理しましょう。

コクガカイ「の」と6音でかまいません。
絵画、写真、彫刻
「、」で並列にします。
結句は「す」をいれましょう。

ひゃら
あの梅原竜三郎らの「國画会」ですか?

作者
そうです。恐れ気もなくいろいろ言って。

ひゃら
楽しい時間だったようですね。周囲のひとにうるさいと言われませんでしたか。少し心配です。

ひゃら
歌は面白いです。「國画会」だから勝手な批評に意味があるのでしょう。

(アドバイザー略歴)
結社「かりん」所属。
歌集『炎の藻群』『ていだ 太陽』
清瀬短歌サークル講師

豊子

 

短歌と感情 宮 柊二先生 (7)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋

喜びを何を例えようわが心友が出来たと叫びたくなる

お母さんを困らせたり、予習もしてこないで先生の困るのを面白がって机の下ばかり見ていたりする。そういうことはやっぱり寂しいところがあるからだ。どこかに友達を欲しいと思っているからかもしれない。その友だちができた。

「俺にも友だちができたぞぉ!」その喜びの表わしようがない。

の歌は、そういう歌ですね。友だちがどんなに大切かという事は皆さんが年齢をひとつ拾い、また拾い、また拾っていくたびに分かっていくのではいか。この学
校の中で友だちと共に勉強しているという喜びをまだ反省していないのではないか。こういったところで青春を、学校時代を学んだという喜びが、将来どんな大
きな力で皆さんに戻ってくるかという事を考えておいても良いと思う。

単に友といっているが学校の、つまり学友と言ってもよい友ではないか。

短歌と感情 宮 柊二先生 (6)

いじわるく答えしあとは寂しさとふしぎにまじりて満足きたりぬ

寂しいけれども、なんとなくすっと気持ちがいい意地悪、皆さん正直に書いてみてください。きっと有るはず。これは悪い性質というものじゃない。僕な
んかも
家で奥さんと言い合う。奥さんが困った顔をすると「自分の奥さんをいじめて、ああ、俺は悪い人間だなあと思って反省して寂しいけれども、片一方ではいつも
奥さんの方が強いですからね。だから妻君がこう困った顔をすると、気持ちいいんだなぁ。どうだ、人間の困る感情って初めてわかるだろう。」なんてそういう
気持ちを抱く。

「意地悪く答えし後は寂しさとふしぎにまじりて満足来たりぬ」という歌の感情、作文で書いてみなさいといわれて書けないだ
ろう。散文ではとても書けない。散文で書こうとすると意地悪の原因があってそしてそう言わなければならなくなってとか意地悪く言ったから喧嘩になっちゃっ
たとか、散文ではもう少し込み入ってしまう。短い作文では微妙な寂しい悲しい親しい感情の陰影が出ない。

歌では、それらがわかる。それは感情を歌っている詩叙事詩だからである。感情というものは説明できない。説明できないがこの歌をうたった人を意地の悪い人だと少しも思わない。こん
な歌をうたうくらいの人は、かえって懐かしい人ぐらいに思う

そういう人は、懐かしい人だと思いませんか。短歌を歌う者の本質がそこにある。

短歌と感情 宮 柊二先生 (5)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋

なんとなく母に退学するといいて おさまらぬ胸をおちつかせてみる

「おさまらぬ胸」というような気持ちは私にも分かるような気がする。理屈では彼も「おさまらぬ胸」がどういうことか言えない。
喜びもありましょうが青春の不満もある。それは説明できないもの何かモヤモヤした不満がある。


かもモヤモヤして怒りっぽくなる気持ちは一番近いものにぶつかっていくものである。だからこの歌でも、俺は退学するよなんて言って、お母さんを一種の甘え
ですが脅かすんですね。お母さんを脅かすなんて悪い生徒だと思うんですがそう言ってみたい作者の気持はきっとあるのだ。胸の中にそして言った。

更にこういう歌をうたっておけば私くらいの歳になった時に、そうだったのか。あのときの自分の気持ちはそうだったのかときっとわかる。そして、若い、この歌の年頃の少年のその胸中がわかってやれる。それが歌のいい所である。

その歌っている時の正直な気持ちを残していく。お母さんを脅かすことによって、気持ちを落ち着けていて良くないと思うけれども、この作者の気分、私にも覚えがある。

綾子

短歌と感情 宮 柊二先生 (4)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋

先生に問い詰められて黙っている机の下の光目にしむ

勉強してこなかったもんだから指されても答えられなかった。どうした、なんて問い詰められて返事が出来なくて、黙って、机の下に差し込んでいる日を
見てい
るんだ。僕にも覚えがあります。教科書を立てて購読本を読んでいたら、指されてしまった。僕の方が悪かったんだから仕方が無かった。だからそのときの先生
は鞭をあげられた。しかし、今になるとその先生が懐かしくて仕方がない。

その先生はもうなくなりましたが私が四十幾つの頃何十年ぶりで
私を訪ねてくださった。「宮さん、いらっしゃいますか。」なんてはじめは丁寧でしたが「こら!肇(本名)!!」、四十幾つになった私をつかまえて、昔の先
生になってしまって「短冊かけや」なんて命令してました。

勉強する生徒を私は好きですけれど、勉強を怠けて、こういう歌をつくる生徒も私はまた大好きです。そういう生徒をどんどん叱られる先生もまた大好きです。

綾子

短歌と感情 宮 柊二先生 (3)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋

短歌は叙情詩のひとつの形式である。短歌の形式の中で、感情を述べる詩の一体のわけである。


というものは、感情が豊かで深く、やさしく、強く、清らかで、そういういろんな感情要素を持っている人でなければうたえないものである。感情というもの
は、一人一人によって違うものだけれども、その中でもとりわけ豊かで深く、敏感で、ものを見る目や気持ちがきれいな、そういう感情を持つ人が詩をつくると
思う。
その中で短歌は定型詩である。

整理すると短歌は芸術の中の文学に属し文学の中では詩に属する。
詩は叙事詩 叙情詩があるが短歌は叙情詩である。日本でいま詩というものには、現代詩、現代俳句、現代短歌などがある。

綾子

短歌と感情 宮 柊二先生 (1)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋 -

桑の葉の青くただよう朝あけに たえがたければ母よびにけり

桑の葉が、青くただよってにおう朝に、がまんできなくなって、「お母さん」と呼んだ。

においが青くただようとか白くただようとかいうことはない。しかしこの歌の場合は、「桑の葉が青くただよっている」といっている。これが感じというものだ。

朝の中にあの桑の葉の匂いが流れると、ひやひやした、なんか青いような感じがする。これです。


い色というのは、何を感じさせるのか、なんとなく、悲しいような、あるいは気持ちが沈静するような、沈んでいくような、そういう感じをおこさせる。だから
匂いに青いとか赤いとか、白いとか そういうことはないけれども、その人の気持ちによって、匂いを青く感じたり、赤く感じたりするかもしれない。斉藤茂吉
先生は、桑の匂いを青いと感じた。

匂いを何で青いと感じたのか。お母さんが亡くなる時の悲しさが背景にある。お母さんが危篤ということで
家に帰省された。命がもう危ないと思ってせつないような、悲しいような気持ちの、その時に、桑のにおいが流れてきていた。そのとき、「青くただよふ」と感
じとった。「感じ」である。

そういうことを「感情移入」という。作者がそういう感情を持っているから、その感情を相手の中に投入して、相手が感情を持っているようにうけとる。つまり、匂いが色を持っているように感じとる。それを「感情移入」という。

綾子