予想もせぬ展開見する人生の不可解故に養ふるこころ
札幌に文学館建ち特集号が送られ来しをよろこびとする
曇り日の潮来のあやめ花びらの白きを眺め紫を眺む
いち面のあやめの群れをやや離れのほほんと咲く白き
睡蓮
女たちの子守歌 みなみ恋し ふるさと
予想もせぬ展開見する人生の不可解故に養ふるこころ
札幌に文学館建ち特集号が送られ来しをよろこびとする
曇り日の潮来のあやめ花びらの白きを眺め紫を眺む
いち面のあやめの群れをやや離れのほほんと咲く白き
睡蓮
いじわるく答えしあとは寂しさとふしぎにまじりて満足きたりぬ
寂しいけれども、なんとなくすっと気持ちがいい意地悪、皆さん正直に書いてみてください。きっと有るはず。これは悪い性質というものじゃない。僕な
んかも
家で奥さんと言い合う。奥さんが困った顔をすると「自分の奥さんをいじめて、ああ、俺は悪い人間だなあと思って反省して寂しいけれども、片一方ではいつも
奥さんの方が強いですからね。だから妻君がこう困った顔をすると、気持ちいいんだなぁ。どうだ、人間の困る感情って初めてわかるだろう。」なんてそういう
気持ちを抱く。
「意地悪く答えし後は寂しさとふしぎにまじりて満足来たりぬ」という歌の感情、作文で書いてみなさいといわれて書けないだ
ろう。散文ではとても書けない。散文で書こうとすると意地悪の原因があってそしてそう言わなければならなくなってとか意地悪く言ったから喧嘩になっちゃっ
たとか、散文ではもう少し込み入ってしまう。短い作文では微妙な寂しい悲しい親しい感情の陰影が出ない。
歌では、それらがわかる。それは感情を歌っている詩叙事詩だからである。感情というものは説明できない。説明できないがこの歌をうたった人を意地の悪い人だと少しも思わない。こん
な歌をうたうくらいの人は、かえって懐かしい人ぐらいに思う
そういう人は、懐かしい人だと思いませんか。短歌を歌う者の本質がそこにある。
短歌と感情(昭和四十三年五月十八日) −長狭高校講演速記録より抜粋
なんとなく母に退学するといいて おさまらぬ胸をおちつかせてみる
「おさまらぬ胸」というような気持ちは私にも分かるような気がする。理屈では彼も「おさまらぬ胸」がどういうことか言えない。
喜びもありましょうが青春の不満もある。それは説明できないもの何かモヤモヤした不満がある。
し
かもモヤモヤして怒りっぽくなる気持ちは一番近いものにぶつかっていくものである。だからこの歌でも、俺は退学するよなんて言って、お母さんを一種の甘え
ですが脅かすんですね。お母さんを脅かすなんて悪い生徒だと思うんですがそう言ってみたい作者の気持はきっとあるのだ。胸の中にそして言った。
更にこういう歌をうたっておけば私くらいの歳になった時に、そうだったのか。あのときの自分の気持ちはそうだったのかときっとわかる。そして、若い、この歌の年頃の少年のその胸中がわかってやれる。それが歌のいい所である。
その歌っている時の正直な気持ちを残していく。お母さんを脅かすことによって、気持ちを落ち着けていて良くないと思うけれども、この作者の気分、私にも覚えがある。
綾子
短歌と感情(昭和四十三年五月十八日) −長狭高校講演速記録より抜粋
先生に問い詰められて黙っている机の下の光目にしむ
勉強してこなかったもんだから指されても答えられなかった。どうした、なんて問い詰められて返事が出来なくて、黙って、机の下に差し込んでいる日を
見てい
るんだ。僕にも覚えがあります。教科書を立てて購読本を読んでいたら、指されてしまった。僕の方が悪かったんだから仕方が無かった。だからそのときの先生
は鞭をあげられた。しかし、今になるとその先生が懐かしくて仕方がない。
その先生はもうなくなりましたが私が四十幾つの頃何十年ぶりで
私を訪ねてくださった。「宮さん、いらっしゃいますか。」なんてはじめは丁寧でしたが「こら!肇(本名)!!」、四十幾つになった私をつかまえて、昔の先
生になってしまって「短冊かけや」なんて命令してました。
勉強する生徒を私は好きですけれど、勉強を怠けて、こういう歌をつくる生徒も私はまた大好きです。そういう生徒をどんどん叱られる先生もまた大好きです。
短歌と感情(昭和四十三年五月十八日) −長狭高校講演速記録より抜粋
短歌は叙情詩のひとつの形式である。短歌の形式の中で、感情を述べる詩の一体のわけである。
詩
というものは、感情が豊かで深く、やさしく、強く、清らかで、そういういろんな感情要素を持っている人でなければうたえないものである。感情というもの
は、一人一人によって違うものだけれども、その中でもとりわけ豊かで深く、敏感で、ものを見る目や気持ちがきれいな、そういう感情を持つ人が詩をつくると
思う。
その中で短歌は定型詩である。
整理すると短歌は芸術の中の文学に属し文学の中では詩に属する。
詩は叙事詩 叙情詩があるが短歌は叙情詩である。日本でいま詩というものには、現代詩、現代俳句、現代短歌などがある。
短歌と感情(昭和四十三年五月十八日) −長狭高校講演速記録より抜粋 -
桑の葉の青くただよう朝あけに たえがたければ母よびにけり
桑の葉が、青くただよってにおう朝に、がまんできなくなって、「お母さん」と呼んだ。
においが青くただようとか白くただようとかいうことはない。しかしこの歌の場合は、「桑の葉が青くただよっている」といっている。これが感じというものだ。
朝の中にあの桑の葉の匂いが流れると、ひやひやした、なんか青いような感じがする。これです。
青
い色というのは、何を感じさせるのか、なんとなく、悲しいような、あるいは気持ちが沈静するような、沈んでいくような、そういう感じをおこさせる。だから
匂いに青いとか赤いとか、白いとか そういうことはないけれども、その人の気持ちによって、匂いを青く感じたり、赤く感じたりするかもしれない。斉藤茂吉
先生は、桑の匂いを青いと感じた。
匂いを何で青いと感じたのか。お母さんが亡くなる時の悲しさが背景にある。お母さんが危篤ということで
家に帰省された。命がもう危ないと思ってせつないような、悲しいような気持ちの、その時に、桑のにおいが流れてきていた。そのとき、「青くただよふ」と感
じとった。「感じ」である。
そういうことを「感情移入」という。作者がそういう感情を持っているから、その感情を相手の中に投入して、相手が感情を持っているようにうけとる。つまり、匂いが色を持っているように感じとる。それを「感情移入」という。
夫の鼾高き夜半かな一人生を誤らしめし戦争を憎む
引く潮は岩くぼを急ぎ下(くだ)りゆき押し来る波と
白く揉み合ふ
打ち上げしかじめの散らふ砂深き太海(ふとみ)の磯を一人しゆくも
夢ひとつ受けたる心地水仙の球根の袋手渡されつつ
ベッド横に腰掛けふいに寂しかりいとも酷なり老孤といふは
本当に生まれて良かったと思ふかと吾子は問ひたり乙女さびたり
勝敗がすべての如き現実の人間といふを時に憎めり
老母と今年もさくら見上げつつさくら並木を去りがたくをり
大声でひとりごといひ女行く背にさくらばな幾ひらつけて
暗雲に蔽われてゐる満開のさくら眼に顕つ白白として
夜桜にこころわななくICUの酸素マスクの母を思ひて
蝶を曳く蟻の続かる足元の土すでに温もる六月の朝
朝の庭に蝶の骸の曳かれゆく立てたる羽根に風を受けつつ
柚子の葉の緑に染まり這ふ虫は綿毛のごとき白き巣を作る
開き置く窓より入り来揚羽蝶古びし壁に絵となり止まりぬ
紫陽花の花鞠青く薄紅にでで虫這へば白蝶の舞ふ
ごみとして捨てられしかくはがたの開けしままなる大き角なる
みちをしへあるいは吾に方角を故意に過ち導き来しや