短歌教室 案内 佐野豊子

清瀬短歌サークル 若干名 募集

定員     12名 現在10名

場所     清瀬駅前 アミュー6階

日時     月一回  第一金曜日 13:00〜

講師     佐野豊子
現代歌人協会員
日本歌人クラブ会員
結社     かりん
歌集     第一歌集『炎の藻群』
第二歌集『ていだ(太陽)』
℡0424−92−3045

短歌教室

清瀬短歌サークル 駅前生涯学習センター「アミュー6階」

月1回 定員12名 現在10名   講師 佐野豊子

(塚本治子)
カレンダーに友と逢う日をうめていく娘よ吾との時間も欲しい

(武山いちゑ)
落慶の法要済みぬ冬晴れの庭に信徒ら昼食(ひる)をよく食ぶ

(小見山みよこ)
雨つづき野鳥も鳴かぬ那須の里ダチョウ料理で気を晴らしおり

(坂口文子)
区画ごと球形長四角と整備され箱庭のよう小室のつつじ

(井手麻千子)
一陣の涼風ありて風鈴のこわれ鳴らないことに気づけり

(羽根 花子)
うす紅のほのかな椿に魅せられて一枝手折りぬ名は春曙紅(しゅんしょくこう)

(米澤繁子)
心せば出てこぬ歌もくりやにて水音のなかに時にいで来る

(戸島政夫)
鯉のぼりのたうつごとく泳ぎおり何処へいくかを言えば放たん

(篠崎玲子)
札幌の五月の空を綴りたる卆寿のおじの筆みだれおり

野塩橋  mohyo

駅からも病院からも野塩橋目指して渡る行きも帰りも

細糸の絡まる様の母の文字声たからかに母は詠みあぐ

帰ろうとするとき必ず目を開ける母なり帰る痛みまた湧く

梅林の木の下蔭の枯れ落葉とだえしところ雪解けやらぬ

大方の人眠りいる病室のカーテンの外より冬陽あふるる

暖冬

紙のような仏桑花咲くおそろしい異変のままの師走なかばを

花のある芸人のごとむんむんと民家のさざんか百花繚乱

舞いまさる秘訣はあるかななかまど女心は冷えて花を落とせり

メサイアを聞きつつ思う「人はなぜ動物のなかで醜くいのでしょう」

息子夫婦  mohyo

乗車中たまたま隣に居合わせた老女語りぬ長男への思ひ

長男を養子に出した覚えなし息子夫婦を寂しみていふ

長男の家訪ねしが嫁の母の手料理ばかりでもてなされしと

回転窓  ふーしゃん

うらわびし回転窓は次々に音残しつつ夏休みに入る

Tさんのご紹介で松村一雄先生(高校教諭)主催の
歌会に初めて作った短歌を提出。
先生からまるでフランス映画を髣髴させるものです
とお褒め頂いた作品だそうだ。
職場は台北の旭小学校であった。

短歌と感情 宮 柊二先生 (10)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より
抜粋

人間には目があって、足があって、外貌がそなわらないと人間にはなれない。人間には、人間として認められる共通な外貌がなければ、人間にはなれな
い。それ
と同時に、人間の血が流れていなければ、生きた人間ではない。外貌も血も、人間としては誰のも等しく同じだが、仔細に見ればみんな違う。違うから
ABCD・・・という個々の別がある。その違う中には外貌の形、格好から、また体格から、さらに血液型まで、ことに感情、それらのひとつひとつが違う。詩
歌を好む人と関心のない人、自分で作る人、作らない人の違いもあると共に、形が一つに定まっている短歌をつくりながら、つくる人によって内容が皆違うとい
うことも、今の例に似ている。

いろいろな人のいろいろな詩があってよいし、形は同じでありながら人間の一人一人が違うように内容(なか
み)の違う短歌の生まれることも面白い。詩や短歌を好んだり作ったりする人は、感情の豊かな人に多いよう思っている。感情の豊かな人間は、原始的な純粋豊
かさにいつも郷愁を感じている。そういう人が詩歌に心ひかれ、いま申したそれぞれの違いに従って、個性の違う詩歌を生んでゆくのである。

短歌は形式が定まっている詩で、皆さんに或いは、作りにくい、うたいにくい詩なのかもしれない。形式があるということは、大人ということでもあり短歌は大人の詩と呼ぶことができると思う。

大人の詩とはどういう意かというと大きな法則を自身で持っている詩だということで、その法則ということをこう言ってもよい。従わせるのが法則なのか
かくあ
りたいと考えさせるのが法則なのか、厳密な意味では従わせるのが法則であるが詩では、かくありたいと考えさせる願わせる、つまり表現上の効果で願求するも
の、その一つに表現形式がというものがあって、それを持っている日本の詩が短歌である。

短歌の五句三十一音数という詩形式は、日本語にとって非常に美しい厳しい高い詩の形式である。

凧は風さえあれば、どんどん自由に上ってゆきたいのである。しかし地上で綱を持っていて、その凧の自由と欲望抑制している。力学の問題でしょうが凧
は、空 中に安定して浮かんで実に美しい。もし綱がなければ、凧の自由に任せれば、凧は空中はるかへ飛んでいって落ちてしまう。

これは誰かの言った
例え話を借りたのであるが、選んで、努めて、自分の法則を持っている、それが短歌は自分の詩の形式を持っているということである。作品の内容や材料やその
他に比ぶべき凧の大小、絵図、綱それらはみんな変わっていて一向に差し支えない。ただし一番大切な綱を持つ地上の者が、その凧と風との相搏つ力を承知しな
がら、凧をあげるための法則に従わなければならない。そういうことである。

父の30年祭  mohyo

亡き父の30年祭父のひ孫さくらちゃんもいて豊かなる午(ひる)

昨日より下の歯2本生えそうな歯茎を見せてさくらちゃん笑む

姉弟(あねおとうと)らにクッキー袋を渡しつつ尚子は尚子の心遣いする

歌にせよ  mohyo

エッセーで書けぬところを歌にせよ鍋洗いつつ拭きつつ思ふ

ミツビシのボールペンの歌三人の歌人の解説また読んでみる

定型で言えぬ思ひを漢字・かな音リズミカルにととのえてみん