初釜でした。

初釜から着物を着て練習に通うと決心して着る練習をした。しかし胸元 裾帯の形 などこまごましたところを見たら満点ではない。

昨夜もその前も練習したが何かが不足であった。初釜で皆さん忙しいのでよれよれではなくきちんとできる人に依頼した方がよいと娘達は言った。わたしはがんばって着物を着てそれでも心配なので見ていただいた。結果はその方が良かった。

胸元の皺は軽く綿をいれてなくした。足の親指と次ぎの足にバンドエイドを巻いて足の痛くなるのを防いだ。着終わってから大股開きで膝を曲げて着物であるきやすくした。着物がずれてきた時も恐れず大胆に引っ張って直すことも覚えた。

終わってから着物をお湯でタオルを洗い固く絞ってポンポン叩きつるす。長じゅばんのえりをとって下着類も一緒に洗濯した。次回は同じ着物では行きたくない。娘の着物をだしてみたら保管が悪く皺だらけである。アイロンをかけてもらってそれを着ていこうと思う。

肝心の初釜は精神的にあまり面白くなかった。しかしお客様の中によい方があり慰められた。来年またお目にかかりましょうといわれた。

星占いを見たら今日はよい日ではなかった。そんな気もしていた。

今日、苦労したことは、あとで必ず良い結果となって戻ってきます。きっと頑張り抜くことができれ
ば、心のもやも晴れ、あなたによい結果が生まれてくることでしょう。がんばりましょう。誰にでもいえそうな言葉であるが『よい結果が生まれてくることでしょう。』を信じることにした。

綾子

2006年を向えて

あっという間に今日はもう3日である。今年は短歌をたくさん作ることに重点をしぼろうと思う。

上司だったS先生はHPからブログに挑戦さらにネット株にも挑戦されるという。目標を読むと年3回は海外旅行。国内旅行にもよく行かれる。月一度旅行された写真が整理されたHPのご案内が来る。

このことに大いに刺激され着実に私も挑戦しようと思っている。旅行はそんなに出来ないから自分の目標に挑戦したい。

また同僚だった人はソフトの種類を集めて日本語訳になるまでを研究したりかなりITの研究が進んでいる。それをブログという形で記録に残している。私には意味がわからないが地道でハイレベルなことだけは良くわかる。

暮らしの研究室というブログでは彼女の視点の幅広さと一途なところが好きだ。私と似ていて違うことを違うといってしまうところである。だから好きな人でもある。今年は昨年よりも真剣に書き込みたいと思っている。

椿わびすけの家というHPにはほぼ毎日うかがっている。裏千家の教授で漱石の研究家でもある。最近はジャーナリストとしても活躍されていて記事は歯切れがよく京都のことはもとより幅広い知識が得られる。

MUKUGEさんは大分の方であるが短歌に対する姿勢自分に対する姿勢が純粋で頭が下がる。

今年は着物を着てお点前が出来るようにすることも目標である。着付け教室で市内の方々と知り合いになれることもうれしいことである。

8日の初釜をまず成功させ月末の短歌の締切りにはいい歌をつくりたい。そして母のところにも出来る限りかよい母の老後が豊かなものになるようにしたい。

岐阜の正さんは失礼なことでもなんでも思ったことを何でも話せるそしてはっきりした意見が返ってくる。

ドイツ在住のジャーナリストTさんは若いがとても教えられる方である。子育てにも積極的に参加されていてヨーロッパやドイツのよさが良くわかる。わたしはメルマガの記事から教えられることが多い。

今年もITから多くの学びがあると思うが自分のブログを充実させたいと思う。このブログでお世話になった渡邊社長さんがお忙しい中かなりの時間をかけてご協力いただいた。高山さんにも感謝したい。

綾子

永き日

老いの身を徐々に知りゆく年となり口紅少し濃ゆくさしたり

永き日を迷へる子羊いつの間にか五十を過ぎて独り立ちゐる

パンフレットの高山植物千葉駅の構内に見つけしばらく眺む

尚子

人は人に期待したい。

若い頃、何をやるにもこれからの人ということで期待されていた記憶がある。しかし今は違う。

「もう遅い。そんなこともしらないのですか。」要するに年寄りなどを教えても期待できない。

「若い人を育てる」いい言葉だと思う。あるセミナーでは「元気な人 うまくいっている人の傍にいると自分の運も良くなる」というものがあった。私は怖いと思った。本当に相談したいことはできないのか。

あの人とは親しくしていきたいからあまり暗いことを言いたくなかったといった若者のことばを思い出した。

「あの人は結婚しないでここまで来て立派だけど私は子どもも欲しいからあまり深い付き合いも考え物かな。」

私は人は人に期待するのがよいと思う。期待されたら多少のことがあってもうれしいものだ。

若いことがよい。これはスピード感も含まれるだろうな。実際エレベーターが遅いだけでいらいらしてくる。私も随分犯されている。

昨今起こる奇妙な事件の遠因ではないか。自分の命・権利は両親またその両親が健康で大人になったお蔭で生まれてきたものである。その命を考えないで自分の短い命をどう愉しむかだけではだめだ。

さびしい過ぎる。

綾子

呉服売り場

茶道をするうちに着物を着たくなった。公営施設で一回千円で午前中3時間くらい教室が開かれているので参加している。名古屋帯を持っていないので安いのを買うことになり着付け教室の先生と浜町にある問屋さんにいった。高くない帯を購入した。明日から名古屋帯を結ぶ練習にはいる。

買い物に行って帰る時先生が「決断力があるかたですね。なかなか決心がつかない人がいます。」とおっしゃった。

私は①今ある着物数枚に合うもの②お茶席でも使えるもの③目利きが出来な
いので高いものに手を出さない。

基準が決まっていることと自分がぱっとみて違うものは良くても買わないからだと思う。

考えたら外出する時のコートがなかった。小田急と京王デパートを回った。三越本店の方が良かった気がしたが高くてかえない。小田急のは安いがすぐいやになりそうなものだった。

京王デパートで古着屋さんが呉服売り場の奥にあった。道行などを全部着せていただいたがぴったりなものがない。私に合うのはその店で新調したもので5万円だった。着させて頂いて私はあまり好きでなかった。

私はそこで着物と帯を借りてその上から道行を羽織ってみた。少し袖丈をのばせば何とか着られそうだ。お直し5000円 道行代5000円で買うことにした。

少し寒いのは襟巻きをすることにした。何も分からない時に買って後悔しないものを買い着慣れることにした。帯が安いのは駄目よという人もいたが茶道教室で練習するときは洗える着物を使う予定なのでそれなりでいいかなと思う。

こうしているとまた働きたくなった。今度は着物を買うために働きたいと思う。

綾子

愛美子おばさんの死 ②

妹から「愛美子おばさんがなくなってね。今日お通夜で明日がお葬式らしい。」の電話。びっくりというより申し訳ない気持ちで一杯になった。小さい頃お正月になるとおばさんの家にいくのが楽しみだった。

おばさんは越路吹雪ににたおしゃれな人だった。今は上野毛の立派なうちであるが幼い頃は電車が通ると良く聞こえるガードの近くの家で3つくらいしか部屋がなかった。一つは玄関のような3畳8畳4.5畳しかない狭い家だった。

おばさんはおしゃれなだけでなくお料理も上手であった。カレーに豆が入っていたり物がない中でも豊かな気持ちになれた。

そんな狭い家におじいさんおばあさんも同居、子ども3人そこに私達4人兄弟と両親が遊びに行ったのである。

おばさんは何もいやなことを言わずやさしかった。

15年前伯父さんと一緒に洗礼をうけていた。伯父さんは母の兄である。その親達は香港台湾で仕事をし既にクリスチャンであった。伯父さんは歯が痛いとペンチで抜くようなひとであった。

葬式はキリスト教式で行われた。牧師が私の従兄弟すなわち伯母さんの長男が最近クリスチャンになったとお話になった。

クリスチャン3代目である。従兄弟は責任感の強い働き者だ。

綾子

愛美子おばさんの死  ①

母はずっと清瀬の病院に入院中である。しっかりしている日とそうでもない日がある。昼夜起きていろいろな話をしハイな状態が続きウトウトしている日が2日くらいあったりすることがる。

一日の過ぎ行く時間がゆったりとしていて1日が24時間の私とは違い1日48時間だ。伯母さんの死を伝えるかどうか考えたが母のお金もお花代として包もうということになりはっきり言うことになった。

母は伯父さんを慰めるからオーバーを出せとさわいだらしい。「伯父さんは15年前になくなったよ。」 「ウソ昨日もここに来て話したじゃない。」

母を説得したつもりであったが夜中に大きな声で賛美歌を歌ったりお祈りをしていたらしい。病気だからあるいは老人だから仕方がないと思っていたが実際に母にあって話してみると母の世界ではおじいさんもおばあさんも生きている。私のことを母親だと思っているらしい。

それが15年前に終わっているとかもう誰も彼も亡くなっていると言われたらどんな気持ちだろうかと思った。

童話「浦島太郎」のはなしが現実味を帯びて私の心にのしかかってきた。

伯母さんの死など知らせなくて良かったのだろうか。わたしならどうだろう。弟妹がいつの間にか死んでいる世界に連れて行かれたらどんなに慌てることだろう。

母は時々この地球上にある他の世界と行ったり来たりしている。

綾子

望郷の歌

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも  安部仲麻呂

何度も読んでいるが望郷の歌であると最近テレビで知った。そう思い読んでみるとなかなかよい歌に思える。歌の背景を知り歌を読むと違ってくることが分かる。

最近 名もない遣唐使の碑が見つかって話題になった。帰国がきまりさあ日本にというときに亡くなった。吉備真備は帰国して高官にのぼりつめた。それを聞いた玄宗皇帝が官位をあげてその死を悼んだそうである。

これを聞いて私はいろいろなことに思いをめぐらせた。玄宗皇帝に好かれるよい男であった。玄宗皇帝に関わる女性に好かれて別れがたく・・・・・・・・。吉備真備にとっては邪魔な男ではなかったのではないか。

いずれにしても優れた若者だったに違いない。19歳で日本を出て36歳での死36歳で死んだりしたのだろうか。今の日本ではここまでになると癌とか事故以外死んだりしないと思っていた。

吉備真備と並んでは安部仲麻呂もゆうめいである。上記の歌が遣唐使として望郷の思いを歌ったものだということを最近のテレビでしった。彼は帰国船に乗ったが難破して帰国をあきらめたのが50代半ばであった。しかしどうしても望郷の念に駆られて書いたのが上記の歌であった。どのような経緯で百人一首に入っているのだろうか。

彼は70歳で長安でなくなっている。今は北京から成田まで飛行機ですぐである。北京から大同に帰る人は汽車でかえり私が飛行機であれば私の方が早く家に着く。多くの人の勇気や冒険の結果が今日の文化を築いているのだと思う。

綾子