頂上を雲に隠して春の富士花霞みたり忍野八海
やがて来る雨の匂ひに急ぎ足朝霧高原の枯野横切る
短歌研究1月号高野公彦選 mohyo
ふらつきて枯葉うず巻き吾を回る木枯らし一号恐ろしきもの
初不動 JUN
冬空やゼームス坂にレモンの碑(レモン哀歌)
年玉やはにかみ両手揃へる子
若人の笑顔眩しき初不動
飼い犬の遠吠え止まぬ寒の入
待春の植木の鉢は古火鉢
19歳のときのうた mohyo
漏れさせる光をかへす蜘蛛糸のやはらかくして意外に切れず
灰色の雲徐々に集まりて視界にゆるる白きおいらん草
亀裂する雲間より見ゆる橙色のメッキの月はマヌカン照らす
人居らぬ教室の中黒板にかきなぐりの文字ありて静けし
出生の秘密を知らず育ち来し混血児K君美しき瞳もつ
ポツポツと音は切れつつ曲となる白き鍵盤に母の手ありて
ユニホームの赤き色もよしポーランドの選手団今我前を行く
理由なき憂いもあるか水たまりの雲みつめつつ友待つひととき
疎ましき日曜の午後一人居て五月雨の音をあらためて聞く
えびがにが片手をあげる恰好(さま)なしてノッコリノッコリ道を横切る
隆起せし胸誇るごと雑踏に女たたずむ夜の立川
『かぷす』について mohyo
東京女子体育大学体育学部体育学科を出たのはこのころから10年してから
である。父は病気がちで弟妹3人のことを考えると家から通え授業料もやすい
大学を選んだ。
本当にこの学校が良かったのか迷いながらの時代だった。このころそんな人も
多く各地の進学高から来ていた。
その中の一人Sさんが認知症になり一緒に来てと言われて山梨の友と千葉市
の奥にある一時あずかりの病院に最近行ったことがある。
母に迷惑かけられないから浪人しなかった。彼女の記憶は高校時代のことばかりだった。教育大学太鼓判だったのに落ちたそうだ。母が働いて大学にいけと
励ましてくれていたという。
帰りにはなんだが涙が止まらなかった。学生時代は一度もそんな話をしたことがなかった。私もしなかった。
太極拳や気功をしている今は本当にあの学校でよかったと思っている。
今年の賀状は頂いた人にだけだした。小 中 高を含めて一番多かったあの大学の特に短大時代の同級生。
2年のとき雑誌をつくってきたけど部活にしたいから引き継いてといわれ引き継いた 『かぶす』という雑誌だった。学長先生 ダンスの先輩からも寄稿して
いただいた。
捨てようとしてすてられなかった。
年賀状の歌 NAOKO MOHYO
NAOKO
小さき文字眼鏡を上げて眼を細め読むこと多し七十のわれ
返歌 MOHYO
はるばると幾山河越え来しわれら共にうたわな生きる喜び
鴉二羽 NAOKO
近寄れば黒く艶ある鴉二羽ゴミステーションの袋を破る
共存の親近感まで湧きそうな生きる眼差し鴉翔び立つ