糸満盛次郎の歌

糸満盛次郎遺作品吾を待つひともあらなくにこの夕べ花の下路人恋ひて歩む

酔ひまして唄いませきみ雪の夜の別離の宴せつなきものを

若かりし日の思ひ出をなつかしみ妻のエプロンのひも結びやる

かへりみて吾が青春は戦ひの弾痕の窪に埋もれしかな

眠り吾が生はなべて憂きこと多かりき夕かたまけて見る茜雲

嫁ぎ来てみそとせの労苦言ひもせで妻の寝息の安らかな貌

喪中欠礼の葉書とどきて名簿より戦友の名を一つ消したり

人肌を恋ひて寄り来る家猫を抱けば夕べの秋のしづもり

末っ子の初出勤なり老二人門辺に出でて手を振りて佇つ

呆けて背に負ひし日もありきこの吾子と肩並めゆけば吾れを見おろす

切妻のそそり立つ屋根陽に輝(き)らひ恵林寺(えりんじ)の庭静もり深し

吾もなく仏さへなし円覚寺の梵鐘の音(ね)のみ樹樹にこだます

屋根厚く古き山門は厳としてうつろふものは吾が身ならずや

禅堂の明り障子は純白にすがしく立てる位置の確かさ

戸を閉ざし俗は入れざる修行堂に色即是空の静寂は充つ

合掌造りの本道の廂重重し秋空の蒼きを截りてそびゆる

明滅する意識漸く定着し病院の個室しみじみと見廻す

生命(いのち)請合はずと宣せられし一瞬を語りけり妻が看護(みとり)も幾夜過ぎしか

長病めばものみな悲しちぎれ雲流るる涯に夏も逝きたり

壷に飼ふ鈴虫凛凛と鳴きそめて老母(はは)逝きし日の頃となりたり

独り来て母の墓前に合掌す何を告ぐべく来しにあらねど

甲斐路ゆき仰ぐ富士ケ嶺雪ありて空一点のかげろひもなし

散策の路に群れ咲く曼珠沙華ふと足止めて妻がもの言ふ

濡れ縁に手をすりあはす蠅一つはたと打ち殺すためらひもなく

無花果の過熟の実には足長の蜂むらがりぬやがて落つべし

なまめける声にほだされ餌を与ふ野良猫も吾も秋は悲しき

ポポの樹の厚きみどり葉陽にきらひ入道雲はかぎりなく白し

ただひとつ咲き残りたる曼珠沙華風吹けばゆらぐ色あせしまま

旅ゆけば心せつなしルピナスの花の紫目に鮮るくして

いくばくを生きるいのちぞ湯の宿の湯舟に入りてあごまで沈む

鄙びたる山のいで湯の旅寝ゆえともしび淡く吾はものおもふ

侘び深き旅なればこそ湯の宿の池の緋鯉に餌をまきてゐつ

細雪音なく降りて夜半白く病みながき心しんしんと寒し

悲しみは心の底によどみゐて無意味に鉛筆を幾本も削る

柔道の古式の型の「受け」を演じ整然と弧を描く吾子を見て居り

受洗すと前列に娘が立つ会堂の一瞬のしじま眼を閉ぢてゐる

池の面に夕べたゆたふ枯落葉風吹けば逆らはず波にゆらるる

群がりし蟻に引かれてゆく屍消えゆくもののしみていとしき

吾が命いつまでをあらむ蕾ふふむ紫つつじ手に触れて見つ

過去(すぎゆき)は茫茫として還るなし孫の小さき手をとりて歩む

綾子

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