ふーしゃんは北原白秋の結社にいたらしい。京都の田舎で白秋先生が無くなっていくつかに分かれたリーダーのうちどなたのもとに行くのか話し合っていたのを覚えている。「宮 柊二がよい」と父が勧めていたのを覚えている。
母は結社『コスモス』に古くから属していた。わたしは中学生ごろからぺらぺらと歌誌をよんでいた。そこに仰木香織さんという方がいた。コスモスその1にあたるページで母も後ろのほうに乗っていたからいつも読んでいた。
今は母があまり読めないので私が持ち帰り読ませていただき妹(佐野豊子)に渡している。次の妹(松岡尚子)はコスモスに属しているが歌会に出る余裕がないようだ。
その1の歌もだんだん年老いたけれども元気を出しているなるほどこのように老いて行きたいものだという歌が並んでいて読んでいて厚味のある歌誌である。
その中に仰木香織さんがおいでになる。母はこの方のご主人は野球で有名な方らしいと若い結婚する前の時代に聞いたことがあった。しかし野球に関する歌はぜんぜん拝見したことが無かった。
歌誌『コスモス』2006-3号に以下のお歌が掲載されていた。
「野茂・イチロー育ての親」と朝刊の一面に載る君の訃報の
相つげる電話にふかく頭を垂りつつおのづからなるなみだあふるる
起承転結ピシリと決めし急逝ぞ恨みつらみを言ふ間もあらず
西王母枝ながら活けつはもののあっぱれな死をかなしむわれは
「無事」の茶掛「無」の一字軸に掛け替えてかみしめてをり蝋月の冷え
有名な仰木監督の奥様かどうかわたしには解らない。母は私に言ったことさえ覚えていないだろう。わたしはいつもこの方のきりっとしたうたを上手いなあと思って読ませていただいていた。今後も読ませていただくと思う。
茶道も華道もなさる方で和服のにあうかたではないかと想像している。一人の死をとても厳粛に深い思いで受け止められていることが伝わる歌である。