三菱鉛筆

中学生から高校生にかけて私はずっと鉛筆を使っていた。今のようにシャープペンシルなどを使うことは無かった。三菱鉛筆が好きだった。勉強をする前にまず鉛筆を削った。心を落ち着けるためだったのかもしれないがみんな起用にきれいに削っていた。今はメールを打つわけで書くことが少なくなったかもしれない。

ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文房具店に行く

このうたは奥村晃作氏の代表歌である。宮 柊二に師事。歌誌『コスモス』の選者でありカルチャー教室をたくさん持ちインターネット短歌にも知り合いが多い歌人。「ただごとうた」の第一人者。

私はずっと三菱鉛筆はあの大三菱グループの会社のものだと思っていた。

「メールマガジン 『役に立たない駄話』  ほぼ日刊で配信」 2/16号によると会社が違うということだった。仲良く栄えてきたという文言は最近の事件と比べて日本人として麗しい思いが広がった。

【三菱鉛筆と三菱グループの関係とは?】

せめてマークだけでも違っていたら、勘違いする人はもうちょっと少なかったとおもう。

三菱鉛筆は名前とマークは同じながら、あの三菱グループとはまったく無関係の会社だ。

1887年、眞崎仁六という人が作った会社だ。当初は眞崎鉛筆製造所という社名を使っていたのだが、1903年のこと、官庁へ3種類の鉛筆を収めるまでに発展し「三菱」をブランド名として商標登録をした。

今でいうと、ファーストリテーリング社がユニクロで売るのと同じこと。

三菱という名前は、眞崎家の家紋「ミツウロコ」と、3種類の鉛筆を収めたことにちなんでつけたという。1952年には社名も「三菱鉛筆株式会社」に改めた。

一方、三菱グループは土佐藩出身の岩崎弥太郎がおこした。三菱の名前とマークは、岩崎家の家紋「三階菱」と、土佐藩主である山内家の「三ッ柏」からアレンジし、商標として1910年に登録したもの。

つまり、三菱鉛筆より7年遅い。それでも本家争いなどおこさずに、ふた
つの「三菱」は今日まで仲良く栄えてきた。

綾子

仰木香織さんのこと

ふーしゃんは北原白秋の結社にいたらしい。京都の田舎で白秋先生が無くなっていくつかに分かれたリーダーのうちどなたのもとに行くのか話し合っていたのを覚えている。「宮 柊二がよい」と父が勧めていたのを覚えている。

母は結社『コスモス』に古くから属していた。わたしは中学生ごろからぺらぺらと歌誌をよんでいた。そこに仰木香織さんという方がいた。コスモスその1にあたるページで母も後ろのほうに乗っていたからいつも読んでいた。

今は母があまり読めないので私が持ち帰り読ませていただき妹(佐野豊子)に渡している。次の妹(松岡尚子)はコスモスに属しているが歌会に出る余裕がないようだ。

その1の歌もだんだん年老いたけれども元気を出しているなるほどこのように老いて行きたいものだという歌が並んでいて読んでいて厚味のある歌誌である。

その中に仰木香織さんがおいでになる。母はこの方のご主人は野球で有名な方らしいと若い結婚する前の時代に聞いたことがあった。しかし野球に関する歌はぜんぜん拝見したことが無かった。

歌誌『コスモス』2006-3号に以下のお歌が掲載されていた。

「野茂・イチロー育ての親」と朝刊の一面に載る君の訃報の
相つげる電話にふかく頭を垂りつつおのづからなるなみだあふるる
起承転結ピシリと決めし急逝ぞ恨みつらみを言ふ間もあらず
西王母枝ながら活けつはもののあっぱれな死をかなしむわれは
「無事」の茶掛「無」の一字軸に掛け替えてかみしめてをり蝋月の冷え

有名な仰木監督の奥様かどうかわたしには解らない。母は私に言ったことさえ覚えていないだろう。わたしはいつもこの方のきりっとしたうたを上手いなあと思って読ませていただいていた。今後も読ませていただくと思う。

茶道も華道もなさる方で和服のにあうかたではないかと想像している。一人の死をとても厳粛に深い思いで受け止められていることが伝わる歌である。

綾子