握手せしその感触の忘れ難し岡田嘉子に憧れし頃
思春期に読みし小説久々に読みて知りたり書き手の意気込み
口語訳の古典おもしろ「そうよねえ」と思ひつつ読む「蜻蛉日記」
女たちの子守歌 みなみ恋し ふるさと
この度新しいブログができました。
妹 佐野豊子が自分の世界をつくりこのブログとリングすることになりました。
すっきりした実力のある佐野豊子の世界が開いていくような予感がしています。
がんばって欲しいと思います。豊子’SWORKは当分空けておきます。HPに出していた
父母 義母 3姉妹 弟の俳句などを掲載したいと思います。ただ今インフルエンザで少し
ダウンしています。温かくなったらがんばります。
中学生から高校生にかけて私はずっと鉛筆を使っていた。今のようにシャープペンシルなどを使うことは無かった。三菱鉛筆が好きだった。勉強をする前にまず鉛筆を削った。心を落ち着けるためだったのかもしれないがみんな起用にきれいに削っていた。今はメールを打つわけで書くことが少なくなったかもしれない。
ボールペンはミツビシがよくミツビシのボールペン買ひに文房具店に行く
このうたは奥村晃作氏の代表歌である。宮 柊二に師事。歌誌『コスモス』の選者でありカルチャー教室をたくさん持ちインターネット短歌にも知り合いが多い歌人。「ただごとうた」の第一人者。
私はずっと三菱鉛筆はあの大三菱グループの会社のものだと思っていた。
「メールマガジン 『役に立たない駄話』 ほぼ日刊で配信」 2/16号によると会社が違うということだった。仲良く栄えてきたという文言は最近の事件と比べて日本人として麗しい思いが広がった。
【三菱鉛筆と三菱グループの関係とは?】
せめてマークだけでも違っていたら、勘違いする人はもうちょっと少なかったとおもう。
三菱鉛筆は名前とマークは同じながら、あの三菱グループとはまったく無関係の会社だ。
1887年、眞崎仁六という人が作った会社だ。当初は眞崎鉛筆製造所という社名を使っていたのだが、1903年のこと、官庁へ3種類の鉛筆を収めるまでに発展し「三菱」をブランド名として商標登録をした。
今でいうと、ファーストリテーリング社がユニクロで売るのと同じこと。
三菱という名前は、眞崎家の家紋「ミツウロコ」と、3種類の鉛筆を収めたことにちなんでつけたという。1952年には社名も「三菱鉛筆株式会社」に改めた。
一方、三菱グループは土佐藩出身の岩崎弥太郎がおこした。三菱の名前とマークは、岩崎家の家紋「三階菱」と、土佐藩主である山内家の「三ッ柏」からアレンジし、商標として1910年に登録したもの。
つまり、三菱鉛筆より7年遅い。それでも本家争いなどおこさずに、ふた
つの「三菱」は今日まで仲良く栄えてきた。
ふーしゃんは北原白秋の結社にいたらしい。京都の田舎で白秋先生が無くなっていくつかに分かれたリーダーのうちどなたのもとに行くのか話し合っていたのを覚えている。「宮 柊二がよい」と父が勧めていたのを覚えている。
母は結社『コスモス』に古くから属していた。わたしは中学生ごろからぺらぺらと歌誌をよんでいた。そこに仰木香織さんという方がいた。コスモスその1にあたるページで母も後ろのほうに乗っていたからいつも読んでいた。
今は母があまり読めないので私が持ち帰り読ませていただき妹(佐野豊子)に渡している。次の妹(松岡尚子)はコスモスに属しているが歌会に出る余裕がないようだ。
その1の歌もだんだん年老いたけれども元気を出しているなるほどこのように老いて行きたいものだという歌が並んでいて読んでいて厚味のある歌誌である。
その中に仰木香織さんがおいでになる。母はこの方のご主人は野球で有名な方らしいと若い結婚する前の時代に聞いたことがあった。しかし野球に関する歌はぜんぜん拝見したことが無かった。
歌誌『コスモス』2006-3号に以下のお歌が掲載されていた。
「野茂・イチロー育ての親」と朝刊の一面に載る君の訃報の
相つげる電話にふかく頭を垂りつつおのづからなるなみだあふるる
起承転結ピシリと決めし急逝ぞ恨みつらみを言ふ間もあらず
西王母枝ながら活けつはもののあっぱれな死をかなしむわれは
「無事」の茶掛「無」の一字軸に掛け替えてかみしめてをり蝋月の冷え
有名な仰木監督の奥様かどうかわたしには解らない。母は私に言ったことさえ覚えていないだろう。わたしはいつもこの方のきりっとしたうたを上手いなあと思って読ませていただいていた。今後も読ませていただくと思う。
茶道も華道もなさる方で和服のにあうかたではないかと想像している。一人の死をとても厳粛に深い思いで受け止められていることが伝わる歌である。
春の雪ふはりと失せしものひとつ
純
午後から日商会館であるというので娘と二人で出かけた。
基調講演は阿刀田氏のお話であった。
パネルディスカッションは3人のNPO法人の代表者のトークがあった。
これは体験したことをお話くださったのでなるほどと思った。
退職して3年目になるが友人達はそれぞれ元気に自分の趣味や場所を見つけて忙しく過ごしている。私は今のところすぐ疲れて最近は65歳をすぎたら70歳までは生きられるという統計を信じてゆっくりと励んでいる。
何がイヤかというと約束することである。当日それが負担になることが多い。負担にならないこともある。出来るだけ負担になりそうなことはやめようと思っている。昔は無理が通ったが最近はその時はよくても病院へいくのが苦痛になったりする。
大学の先生 町の歯医者さん 新宿区の青年の3人の話。
大学の先生は子育て支援に力を入れている。よいと思ったのは今だけお願いという要求も聞いているということだ。14階のマンションで子育てなどをして核家族であるとかわいいはずの子どもがストレスになるという。これは想像できる。このこのために仕事をやめざるを得なかった。この子がいるからあれが出来ないと思い始め泣かさないように努力していると召使のような状況になり朝早く帰りの遅い夫にも腹が立ちなんで結婚したのかさえわからなくなることがある。こんな時に一時だけあづかる。
また親子教室も開き親同士の親睦も図っている。最近は野菜作りにも励んでいる。そこに老人がヘルパーとして入る余地があるそうだ。ゆっくりおんぶしたり折り紙を折ったり絵本を読んだり、お礼を言うはずの彼女達に私も生きがいが出来たと老人は喜ばれるそうだ。
歯医者さんは故郷桐生の再生を目指している。群馬大学工学部の学生さんと織物など技術を持ったお年寄りのマッチングにより実にユニークなイベントができ学生のその後にもよい影響を与えているそうである。老人の技術の伝達は尊敬にかわり「おじいさん」という呼び名から「○○さん」に変わるそうだ。技術者を大切に
再出発の場を提供したいそうである。
新宿区下落合の青年は廃園になった幼稚園を利用してもち米を植えたりしていると散歩中のご老人がいろいろ話しかけたり提案してくれてどんどん輪が広がったという例えば池をつくっているとここには大賀博士が住んでいて太古の蓮の実から花を咲かせたその蓮は現在府中市が管理しているからそこから実を貰ってきて蓮を浮かべろそこに流れる疎水を作ろうとするとここは○○川と●●川が落ち合うところだったから落合という地名が出来たと教えてくれる。稲を植えようとすると今は歌われなくなったが一人だけ歌える人がいると連れて行かれて昔はもち米が盛んだったことを知らされてもち米に変更するなどである。彼は今NPOに欲しいのは企業で活躍した会計に明るい人 役所との折衝に長けている人だという。ボランティアとはいえ志を高く持ち長く続けるには援助を上手く貰い経理を上手に回していく必要があるという。
年寄りの多くなった幕張のあるマンションでは自治会を結成しその道のベテランが上手く働き廃品回収だけで年間30万円の収益を上げていると聞く。その他セキュリティもITを使い効率的にやっているそうだ。
最後に得意分野のあるお年寄りだけが必要なのではない。いるだけで安心なひとが大切だといわれた。何回も桃太郎の話を聞きたがる子どもと話したがりやの老人はリズムが合うそうである。
何かの役に立ちたい人にはそういった無私の心が誰にでもあるのではないか。