愛美子おばさんの死 ②

妹から「愛美子おばさんがなくなってね。今日お通夜で明日がお葬式らしい。」の電話。びっくりというより申し訳ない気持ちで一杯になった。小さい頃お正月になるとおばさんの家にいくのが楽しみだった。

おばさんは越路吹雪ににたおしゃれな人だった。今は上野毛の立派なうちであるが幼い頃は電車が通ると良く聞こえるガードの近くの家で3つくらいしか部屋がなかった。一つは玄関のような3畳8畳4.5畳しかない狭い家だった。

おばさんはおしゃれなだけでなくお料理も上手であった。カレーに豆が入っていたり物がない中でも豊かな気持ちになれた。

そんな狭い家におじいさんおばあさんも同居、子ども3人そこに私達4人兄弟と両親が遊びに行ったのである。

おばさんは何もいやなことを言わずやさしかった。

15年前伯父さんと一緒に洗礼をうけていた。伯父さんは母の兄である。その親達は香港台湾で仕事をし既にクリスチャンであった。伯父さんは歯が痛いとペンチで抜くようなひとであった。

葬式はキリスト教式で行われた。牧師が私の従兄弟すなわち伯母さんの長男が最近クリスチャンになったとお話になった。

クリスチャン3代目である。従兄弟は責任感の強い働き者だ。

綾子

愛美子おばさんの死  ①

母はずっと清瀬の病院に入院中である。しっかりしている日とそうでもない日がある。昼夜起きていろいろな話をしハイな状態が続きウトウトしている日が2日くらいあったりすることがる。

一日の過ぎ行く時間がゆったりとしていて1日が24時間の私とは違い1日48時間だ。伯母さんの死を伝えるかどうか考えたが母のお金もお花代として包もうということになりはっきり言うことになった。

母は伯父さんを慰めるからオーバーを出せとさわいだらしい。「伯父さんは15年前になくなったよ。」 「ウソ昨日もここに来て話したじゃない。」

母を説得したつもりであったが夜中に大きな声で賛美歌を歌ったりお祈りをしていたらしい。病気だからあるいは老人だから仕方がないと思っていたが実際に母にあって話してみると母の世界ではおじいさんもおばあさんも生きている。私のことを母親だと思っているらしい。

それが15年前に終わっているとかもう誰も彼も亡くなっていると言われたらどんな気持ちだろうかと思った。

童話「浦島太郎」のはなしが現実味を帯びて私の心にのしかかってきた。

伯母さんの死など知らせなくて良かったのだろうか。わたしならどうだろう。弟妹がいつの間にか死んでいる世界に連れて行かれたらどんなに慌てることだろう。

母は時々この地球上にある他の世界と行ったり来たりしている。

綾子

望郷の歌

天の原ふりさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも  安部仲麻呂

何度も読んでいるが望郷の歌であると最近テレビで知った。そう思い読んでみるとなかなかよい歌に思える。歌の背景を知り歌を読むと違ってくることが分かる。

最近 名もない遣唐使の碑が見つかって話題になった。帰国がきまりさあ日本にというときに亡くなった。吉備真備は帰国して高官にのぼりつめた。それを聞いた玄宗皇帝が官位をあげてその死を悼んだそうである。

これを聞いて私はいろいろなことに思いをめぐらせた。玄宗皇帝に好かれるよい男であった。玄宗皇帝に関わる女性に好かれて別れがたく・・・・・・・・。吉備真備にとっては邪魔な男ではなかったのではないか。

いずれにしても優れた若者だったに違いない。19歳で日本を出て36歳での死36歳で死んだりしたのだろうか。今の日本ではここまでになると癌とか事故以外死んだりしないと思っていた。

吉備真備と並んでは安部仲麻呂もゆうめいである。上記の歌が遣唐使として望郷の思いを歌ったものだということを最近のテレビでしった。彼は帰国船に乗ったが難破して帰国をあきらめたのが50代半ばであった。しかしどうしても望郷の念に駆られて書いたのが上記の歌であった。どのような経緯で百人一首に入っているのだろうか。

彼は70歳で長安でなくなっている。今は北京から成田まで飛行機ですぐである。北京から大同に帰る人は汽車でかえり私が飛行機であれば私の方が早く家に着く。多くの人の勇気や冒険の結果が今日の文化を築いているのだと思う。

綾子