浅利慶太氏の語り継ぐ日本の歴史

16日ミュージカル三部作のうちの第二部”異国の丘”を見てきました。歌も踊りも切れのある動き素晴らしく声量のある歌声 装置いろいろな点から見
ている人がいました。中学生の修学旅行生らしき団体もいました。平日だったのでもう少しすいているかと思ったのですが満席でした。

私は監督の浅利慶太の解説に引かれています。第一部は「李香蘭」でした。今回は第二部 第三部は「南十字星」です。

浅利慶太氏の言葉を要約します。

【私は戦争ならなんでも反対というような単純な反戦論者ではない。戦わなければならない戦争もある。外国が国土を軍事占領し、民族を隷属させようとした時。
ナチズムやテロリズムのように市民を襲う暴力に対しても戦う。戦争に正しいものそうでないものがあるといっているのでもない。例えどんな崇高な目的があっても国民に凄まじい犠牲を伴って戦われるものである。

だから戦争を決断する立場となった人はこのことを深く心に刻まなければならない。政治家だけではなくそれを支える人(選挙民もかな)世論に影響をもたらす人までを含めて責任を問われる。

戦争も政治の一手段である。しかし民族 国民 国家にとって最後の選択でなければならない。昭和の大戦争を振り返ったときに本当に最後の手段だったのか疑問が湧いてくる。

「あの戦争を総括するには、まだ時代が早い」という意見に私は耳を傾ける。たしかにそこには、大きな錯誤や侵略行動、蛮行と共に、アジアを植民地支配する西欧勢力から解放したという
側面があったことも否定できない。だが何度も言うようにあの戦争開戦、遂行に関わった人々は結果として国民にもたらされる可能性のある「悲惨」について考
えただろうか。戦争回避の方策は絶対になかったのか。もし私が10年早く生まれていたら間違いなくこの戦争の一線部隊の兵士になっていた。私は兵士の立場
でこれらの作品をつくった。

いつか日本はこの戦争の「開戦」と「敗戦」の責任を情緒に流されず自らの手で裁き歴史に刻印しなければならない。

左側は「侵略」として東京裁判史観に基づき全てを悪と片付ける。右側は「止むに止まれぬ歴史の流れ」と発想する。問題は愚かさと狂気に捉えられたその「戦争の実相」である。

あの悲劇を語りづぐ責任が我々にはあると思う。多くの兵士、戦後無辜の罪に問われて死を迎えざるを得なかった軍人たち原子爆弾 一夜の無差別空襲で命を奪われた市民今日我々0を包み込む「平和」は、あの人たちの悲しみの果てにもたらされた。

哀悼と挽歌は我々の手で奏でなければならない。】

お勧めの作品です。

綾子