暖冬

紙のような仏桑花咲くおそろしい異変のままの師走なかばを

花のある芸人のごとむんむんと民家のさざんか百花繚乱

舞いまさる秘訣はあるかななかまど女心は冷えて花を落とせり

メサイアを聞きつつ思う「人はなぜ動物のなかで醜くいのでしょう」

息子夫婦  mohyo

乗車中たまたま隣に居合わせた老女語りぬ長男への思ひ

長男を養子に出した覚えなし息子夫婦を寂しみていふ

長男の家訪ねしが嫁の母の手料理ばかりでもてなされしと

回転窓  ふーしゃん

うらわびし回転窓は次々に音残しつつ夏休みに入る

Tさんのご紹介で松村一雄先生(高校教諭)主催の
歌会に初めて作った短歌を提出。
先生からまるでフランス映画を髣髴させるものです
とお褒め頂いた作品だそうだ。
職場は台北の旭小学校であった。

玉子酒  JUN

寄せ鍋や娘夫婦の暮らし振り

山茶花の白鮮やかに犇(ひしめ)けり

閉ざされて雪山静か寒湯治

後悔も弁解もせず玉子酒

含羞も少し手拍子酉の市

追羽根の空に止(とど)まりやがて落つ

羽子板の武者絵の貌(かほ)に羽子の傷

{追録}

(馬場治子さんの「詩人 村野四郎」上梓を祝ひて)
天翔る四郎の鹿や返り花

(郷土の森博物館元館長 横尾友一氏を悼みて)
冬の雁翔(た)ちて郷土の森残る

学校で 見るもの  よりえ

今回も小学5年生の詩です。

登下校のとき、また校庭や教室の窓からみた大自然のいとなみを、詩にしています。しっかり見て、発見する。詩人としてのポリシーも芽生え、自覚的です。

学校で 見るもの   小5  よりえ

朝は白い月をこの季節には見る
だから朝ちょっと早く家を出る

窓では富士山を見る
先が真っ白になって行く
夏よりもちょつと増えたなぁってくらべるのは楽しい

校庭ではすごい光を持つ太陽を見る。
まぶしくってまぶしくって。でも太陽は優しい。
私たちに光を分けてくれて
大地に光を与えてくれるのだもの。

教室の窓からは綺麗な紅葉の
山々を見ることができる。
夏は緑色一色の山を見て、冬は綺麗な三色。
赤、黄、橙。すてきな三色。

下校には夕日。
今はもう3:30過ぎに夕日がでることが多い。
その時は橙色。4:00過ぎに家の近くでは紫。
綺麗な色。空は色をもっている。

学校では勉強もだいじだけれど
発見もだいじだと私は思うのです。

切り花  佐野豊子

水そそぎ湯をかきまわしバスタブに首までつかる切り花のよう

軽石でかかとすり終え目にみえぬ命にザンブとかけ水をする

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短歌と感情 宮 柊二先生 (10)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より
抜粋

人間には目があって、足があって、外貌がそなわらないと人間にはなれない。人間には、人間として認められる共通な外貌がなければ、人間にはなれな
い。それ
と同時に、人間の血が流れていなければ、生きた人間ではない。外貌も血も、人間としては誰のも等しく同じだが、仔細に見ればみんな違う。違うから
ABCD・・・という個々の別がある。その違う中には外貌の形、格好から、また体格から、さらに血液型まで、ことに感情、それらのひとつひとつが違う。詩
歌を好む人と関心のない人、自分で作る人、作らない人の違いもあると共に、形が一つに定まっている短歌をつくりながら、つくる人によって内容が皆違うとい
うことも、今の例に似ている。

いろいろな人のいろいろな詩があってよいし、形は同じでありながら人間の一人一人が違うように内容(なか
み)の違う短歌の生まれることも面白い。詩や短歌を好んだり作ったりする人は、感情の豊かな人に多いよう思っている。感情の豊かな人間は、原始的な純粋豊
かさにいつも郷愁を感じている。そういう人が詩歌に心ひかれ、いま申したそれぞれの違いに従って、個性の違う詩歌を生んでゆくのである。

短歌は形式が定まっている詩で、皆さんに或いは、作りにくい、うたいにくい詩なのかもしれない。形式があるということは、大人ということでもあり短歌は大人の詩と呼ぶことができると思う。

大人の詩とはどういう意かというと大きな法則を自身で持っている詩だということで、その法則ということをこう言ってもよい。従わせるのが法則なのか
かくあ
りたいと考えさせるのが法則なのか、厳密な意味では従わせるのが法則であるが詩では、かくありたいと考えさせる願わせる、つまり表現上の効果で願求するも
の、その一つに表現形式がというものがあって、それを持っている日本の詩が短歌である。

短歌の五句三十一音数という詩形式は、日本語にとって非常に美しい厳しい高い詩の形式である。

凧は風さえあれば、どんどん自由に上ってゆきたいのである。しかし地上で綱を持っていて、その凧の自由と欲望抑制している。力学の問題でしょうが凧
は、空 中に安定して浮かんで実に美しい。もし綱がなければ、凧の自由に任せれば、凧は空中はるかへ飛んでいって落ちてしまう。

これは誰かの言った
例え話を借りたのであるが、選んで、努めて、自分の法則を持っている、それが短歌は自分の詩の形式を持っているということである。作品の内容や材料やその
他に比ぶべき凧の大小、絵図、綱それらはみんな変わっていて一向に差し支えない。ただし一番大切な綱を持つ地上の者が、その凧と風との相搏つ力を承知しな
がら、凧をあげるための法則に従わなければならない。そういうことである。

父の30年祭  mohyo

亡き父の30年祭父のひ孫さくらちゃんもいて豊かなる午(ひる)

昨日より下の歯2本生えそうな歯茎を見せてさくらちゃん笑む

姉弟(あねおとうと)らにクッキー袋を渡しつつ尚子は尚子の心遣いする