氷川丸  ふーしゃん 1996年ごろ

氷川丸のイルミネーションに誘はれて観光客ら船に入りゆく

氷川丸の錨をおろす岸壁に夜の海波暗く打つ音

「重荷負ふ者われ休ません」聖句 日本語に訳し掲げてありぬ

雨あがる横浜の空ひろびろし頭上はブルー遠くは白緑

苺狩り  松岡尚子

花のように次々開く万華鏡くるくる回し心明るむ

人避ける長の子連れて平日に苺狩りせり貸し切りのごと

苺もぐ要領もありひと粒をくるっとひねりわが掌に乗せる

濃きミルクと袋渡され苺狩り初めてを来ぬ五井のハウスに

風邪  佐野豊子

熱いでて枕の下に手をいれるひんやりひとり春夜を目ざめ

病臥して萎えるこころは混沌と思わぬ人をなつかしみおり

熱さがり夢さめたようしんみりと食卓により白湯いれて飲む

病みあがりあみだ帽子をかぶる部屋こんな事にも安らぐなんて

われが病み姉さん少し痩せたらし母の介護の奮戦メール

短歌と感情 宮 柊二先生 (7)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋

喜びを何を例えようわが心友が出来たと叫びたくなる

お母さんを困らせたり、予習もしてこないで先生の困るのを面白がって机の下ばかり見ていたりする。そういうことはやっぱり寂しいところがあるからだ。どこかに友達を欲しいと思っているからかもしれない。その友だちができた。

「俺にも友だちができたぞぉ!」その喜びの表わしようがない。

の歌は、そういう歌ですね。友だちがどんなに大切かという事は皆さんが年齢をひとつ拾い、また拾い、また拾っていくたびに分かっていくのではいか。この学
校の中で友だちと共に勉強しているという喜びをまだ反省していないのではないか。こういったところで青春を、学校時代を学んだという喜びが、将来どんな大
きな力で皆さんに戻ってくるかという事を考えておいても良いと思う。

単に友といっているが学校の、つまり学友と言ってもよい友ではないか。

鳩  ふーしゃん 1996年ごろ

満開のしだれ桜の紅の花右まわりに観左まわりに観る

二日前羽生七冠王挙式せし鳩の森神社鳩の鳴くなり

ゴッホ描けり青の大空黄の畑不安ただよふ曲線の教会

潮来のあやめ    松岡尚子

予想もせぬ展開見する人生の不可解故に養ふるこころ

札幌に文学館建ち特集号が送られ来しをよろこびとする

曇り日の潮来のあやめ花びらの白きを眺め紫を眺む

いち面のあやめの群れをやや離れのほほんと咲く白き
睡蓮

恩納岳  佐野豊子

もう未来みえない日本そのはなのもっと見えない美(ちゅらさ)さ沖縄

空暗く鳥きしきしと羽搏つなりヤハウェわが神われら生きたし

なんとなく隠しもちたる裂布あり祖母の紅型木綿なれども

その山は歌の香具山その山は琉歌の神すむ恩納岳 撃つな

短歌と感情 宮 柊二先生 (6)

いじわるく答えしあとは寂しさとふしぎにまじりて満足きたりぬ

寂しいけれども、なんとなくすっと気持ちがいい意地悪、皆さん正直に書いてみてください。きっと有るはず。これは悪い性質というものじゃない。僕な
んかも
家で奥さんと言い合う。奥さんが困った顔をすると「自分の奥さんをいじめて、ああ、俺は悪い人間だなあと思って反省して寂しいけれども、片一方ではいつも
奥さんの方が強いですからね。だから妻君がこう困った顔をすると、気持ちいいんだなぁ。どうだ、人間の困る感情って初めてわかるだろう。」なんてそういう
気持ちを抱く。

「意地悪く答えし後は寂しさとふしぎにまじりて満足来たりぬ」という歌の感情、作文で書いてみなさいといわれて書けないだ
ろう。散文ではとても書けない。散文で書こうとすると意地悪の原因があってそしてそう言わなければならなくなってとか意地悪く言ったから喧嘩になっちゃっ
たとか、散文ではもう少し込み入ってしまう。短い作文では微妙な寂しい悲しい親しい感情の陰影が出ない。

歌では、それらがわかる。それは感情を歌っている詩叙事詩だからである。感情というものは説明できない。説明できないがこの歌をうたった人を意地の悪い人だと少しも思わない。こん
な歌をうたうくらいの人は、かえって懐かしい人ぐらいに思う

そういう人は、懐かしい人だと思いませんか。短歌を歌う者の本質がそこにある。

短歌と感情 宮 柊二先生 (5)

短歌と感情(昭和四十三年五月十八日)  −長狭高校講演速記録より抜粋

なんとなく母に退学するといいて おさまらぬ胸をおちつかせてみる

「おさまらぬ胸」というような気持ちは私にも分かるような気がする。理屈では彼も「おさまらぬ胸」がどういうことか言えない。
喜びもありましょうが青春の不満もある。それは説明できないもの何かモヤモヤした不満がある。


かもモヤモヤして怒りっぽくなる気持ちは一番近いものにぶつかっていくものである。だからこの歌でも、俺は退学するよなんて言って、お母さんを一種の甘え
ですが脅かすんですね。お母さんを脅かすなんて悪い生徒だと思うんですがそう言ってみたい作者の気持はきっとあるのだ。胸の中にそして言った。

更にこういう歌をうたっておけば私くらいの歳になった時に、そうだったのか。あのときの自分の気持ちはそうだったのかときっとわかる。そして、若い、この歌の年頃の少年のその胸中がわかってやれる。それが歌のいい所である。

その歌っている時の正直な気持ちを残していく。お母さんを脅かすことによって、気持ちを落ち着けていて良くないと思うけれども、この作者の気分、私にも覚えがある。

綾子

爺の自転車

 

気むづかしい顔した爺の自転車のうしろに
ちんまり男児(おのこ)がすわる
(いちゑ)

原作
気むづかしき顔した爺の自転車のうしろにちんまり男児(おのこ)がすわる

(アドバイス)
全体に現代かなづかいなので「気むづかしき」は「気むづかしい」でもいいのでは。

情景をきちんととらえ、表現されています。

ひゃら
街で見かけた場面でしょうか。

作者
そうなんです。おかしくて笑っちゃいました。

この爺さん、すごい顔してペダルを漕いでいて、そのうしろに男のこが、それこそ、ちんまりすわっているのよね。

ひゃら
大人の気分と関係なく、ちんまり坐っている男の子が可愛いですね。すこし気をつかってるのかな。

作者
爺さんと男の子を見たとたん、この歌がすっとできました。

2004/ 4/ 13  豊子 : 15:31