K.Michikoさんからのお便り

k ・michikoさんからのお便り

– お便り1 – 

ひゃらさんは、沖縄出身で台湾で育ったご両親の二女として昭和20年1月1日台北市で生まれた。姉・妹・弟の4人姉弟である。琉球王朝に仕えた者の末裔である祖母の影響は大きく、沖縄への熱い思いや血縁のこだわりが強い。「沖縄とのかかわりは生まれたときからであり、記憶の中のまぼろしのようでもある。」と歌集「炎(ひ)の藻群(もぐん)」の後書きで述べており、歌の核になっている。

沖縄の民にして日本の兵たりし父よ差別はどこにでもある
首里の血をほこるほかなき一兵士父の昭和は菊に埋れよ
祖母の名は田名(だあな)ナヒ。首里宿道(しゅりしゅくみち)にてっぽうゆりの咲く頃死にき

– お便り2 – 

第一歌集「炎の藻群」は平成五年七月に出版された。ひゃらさんの幼い頃から父上は「新月」、母上は「コスモス」に所属して作歌してきた関係上、短歌に自然に興味を持ったのか十四歳のときの学校の文集に三首載せている。上田三四二の話を父上からよく聞かされ、十九歳で「新月」に入会し上田氏にも会っている。歌集には「かりん」や短歌研究会新人賞に応募の四編をはじめ、「歌壇」 「短歌研究」に発表した作品を収めており、一首一首がくっきりと立ちあがってくる。
個性豊かな達者な作者であることが印象づけられる。

琉舞のつよくわが舞扇ひらくとき蒼海かなし首里族の旗
長布(むらさき)を額におしあて巻き結ぶ恋みのらざる娘役なり
忘れよと君が言うから忘れない我のおきなわおきなわの舞

– お便り3 – 

生後八ヶ月の終戦の夏、京都府綾部に一家は引き揚げた。
小学校一年の二学期、東京都府中市に転居。小学校三年の時、祖母と渋谷で琉舞を観て、圧倒されるような感動を覚えた。全国の民謡・創作舞踊団に入り、そこで琉舞を習い、中学生の間踊った。高校では部活動で創作ダンスクラブを作り、琉舞・モダンバレエ・学校ダンスを踊った。東洋英和短大ではソーシャルダンスクラブにはいった。

二十三歳で沖縄芸能保存会に入会。先生に認められ内弟子となり朝・昼・晩と沖縄舞踊に没頭。時々テレビに出演し、地方公演や物産展などで活躍していた。その頃結婚の話があり、沖縄舞踊を続けるのを条件としたが、快諾を得て、昭和四十六年に結婚。会社員の夫君は、大阪に住んでおり、大阪の姉弟子の所に稽古に行き、コンビを組み、沖縄本土復帰の昭和四十七年頃、依頼されて、大きな公園・遊園地などで踊った。ひゃらさんは女踊り姉弟子は男踊りのコンビで舞踊家として名前が出ていた。舞踊公演の都度、夫が胃痙攣をおこし、一方、ひゃ らさんは流産を繰り返した。

– お便り4 – 

昭和五十一年一千グラムの男児を出産。舞踊と未熟児を抱え挫折していた名古屋で、医師Mさんに出あった。Mさんに紹介された短歌会に入会 熱心に作歌に励むようになった。

少年の口笛きこゆ今しばしあの子われの子十五歳なり
大切なたったひとりのわが息子おまえは母を捨てねば翔べず

未熟児で生まれた子どもは網膜症のため、京大病院で即日手術。その後も百日咳にかかったり、ひきつけをおこしやすかった。ご両親がクリスチャンだった故に彼女はすぐに教会に行き、夫君もクリスチャンである。

身体が小さく、転校の重なった息子さんはいじめにあったこともあり、中学生で受洗した由。その子も今年大学を卒業したとのこと。こころ優しいお子さんであろう。

東京に住みはじめた頃に十歳の子どもを連れて沖縄舞踊の楽屋を見せた。お子さんは「とても面白かったがパパは何といっているか」と問い、「パパは反対している」と答えたら、「じゃ駄目じゃないか」との言葉は、彼女には打たれるような鮮烈な一語として、後々も響いていた。

– お便り5 – 

相容れぬ母の夢にもあらわれて我はしみじみ泣き帰るらし
春むかし母のことばの奇抜さにうちのめされし七星てんとう

母との相容れない悲しさを率直に表白する歌が折々に見られる。母上の介護が必要になってからは姉弟に代わり、一人で母を介護する歌が多くなり、その切実さが迫ってくる。〈老母を娘ひとりが介護する枯れ木とトカゲのオブジェのように〉〈母看取り夕べに帰るわが家庭ひっそりとして姑が花活く〉など。

母上は今年八十六歳となり、介護制度が実施され、毎日通っていた母の家へは週三回となり、精神的、身体的余裕が出てきたという。その母上は貿易商の一人娘としてお姫様のようであり、ひゃらが中学生の時に亡くなった祖母に愛され育った。同居の八十八歳の姑が元気で自分のことや息子(ひゃらの連れ合い)の世話もするので助かり、その姑から母親としての子育てや家事の様々を学んでいるとも話された。

– お便り6 – 

いじめにもさまざまありて仕事量こなせず深夜君が帰宅す
退職をこばみつづけてひっそりと君は枕を外してねむる
教会を大掃除して貰いたる菊一束が家族をはげます

〈贄このむ土地神かなし血ぬられた聖書にある町その名リストラ〉や雇用調整に遇う夫の歌など現代社会の雇用問題をかぶることになる過程等を作品化するひゃらさんの歌への真摯な向かい方がある。美しくまた客観的にうたうのではなく、身辺に迫る生きていく上での核心の部分を歌い取る強さを思う。

また〈大き手がビーチボールを奪うよう奪われている沖縄の島〉のように問題点を的確にえぐるような社会性の強い歌も多い。ひゃらさんさんの持っている情の濃さが産み出す歌は輪郭のくきやかなマグマを秘めた点が魅力的である。