2002年9月

2002年9月

『火災報知器』 投稿者:博夫 2002/09/25

・いつだって押せて押したら、だれだって押せて押したら鳴り出す火報(かほう)
・透明な薄いカバーの向かうにてただそのときを待つ押しボタン

<奥村晃作>

作者は2首連作を試みている。ペア作品である。
麦生さんが定型を壊そうとしているのに対して作者は定型にあてはめることに、拘り すぎている。
必然の字余りならば構わない。むしろ字余りが良い場合もある。
1首目 火災報知器を火報とするのは無理である。
”いつだってだれだって押せる だれだって押せば鳴り出す火災報知器”とすれば
火 報としなくても良いのではないか。2句は1音の余りとなるが構わない。
2首目  「透明な薄いカバー」 は口語表現であり、 「向かうにて」は文語表現であって一首に文語と口語が入交じっているスタイルは混合体であり、しかも文語がベースになっている場合をわたしは「文語口語混合体短歌」と呼んでいる。
現在の短歌はこのスタイルが自然である。これがもう一歩進むと口語がペースとなる「口語文語混合体短歌」、さらにその先が「口語短歌」である。加藤治郎により「口語短歌」は実現されたが、その後の展開を見ると加藤の歌も、東直子の歌も低迷しており、やはり「口語短歌」はムリのように現段階では思われる。
なお、俵万智の歌は
「文語口語混合体短歌」であり、一首の骨格は文語である。

『明け方の夢』 投稿者:mohyo 2002/09/25

・次々にビル崩れゆく歌出来た 九月十二日明け方の夢
・アラブ人が毎日テレビに映されて頭の手拭まねてかぶりぬ

<奥村晃作>

2首共に分かりやすく素直な歌である。
1首目 この歌は9/11を意識して作られたものである。たまたま夢を見たのが9月12日であったわけだが、この「9月12日」という言葉がよく効いている。「9月11日」とすると内容的にも付き過ぎでつまらぬ歌となるし、リズムの上でも緩みが出る。
2首目 2句の「毎日テレビに」は4.4調の8音でリズムに緩みが出る。”アラブ人今日もテレビに」と定型に収めたい。

『死にざまぞよき』 投稿者:夏川 2002/09/21

・このところやたら画面でうちそろい頭を下げるところにでくわす
・身のどこも生あるときのままにしてころがる蝉の死にざまぞよき

<奥村晃作>

1首目
誰でも見ている場面であるが、歌にしにくい題材でもある。
”やたら” ”でくわす”というあまり上品でない言葉を使うことにより、批判を交えたシニカ ルな味わいの歌となっている。
”やたら画面”で”の助詞の使い方について画面”に”にすると「うちそろい」にかかる。
画面”で”だと「頭を下げる」にかかる、”に”は文語。
”で”は口語だが、”に”よりも語勢が強く勢いがあり、この場合は歌柄からいっても「画面”で”」の方が妥当 である。
2首目
蝉が転がっている場所情景を詠っている作品はよくある。しかしこの作品は場所はど こでもよいのである。
上の句を受けての「死にざまぞよき」という結句が良い。
2首共に完成された作品である。

『どこまでも脱力』 投稿者:麦生 2002/09/21

・線路に耳おしあて汽車を待つように目をつぶる君の胸に耳あて
・抱かれて指しゃぶりしながら眠る子のどこまでもどこまでも脱力

<奥村晃作>

作者はあえて定型を崩すという冒険をしている作品である。
1首目
読みで初句を「線路に」で切って読んでしまった人には最後まで違和感のあるリズム になってしまう。
線路に耳 おしあて汽車を 待つように………というように一マス開けて読むと短歌の読みになる。読みの入り方としては「線路に耳」は無理であろう。
2首目
抱かれて/指しゃぶりしながら/眠る子の/どこまでもどこ/までも脱力
これは短歌のフォルムを生かしたリズムで読んだものでる。
内容のリズムで読むと短歌読みではなくなる。現代詩のようになる。
上の句を工夫して「どこまでも どこまでも 脱力」と言うリズムを成功させたい。
短歌はフォルムを生かしたリズム構成が大切である。