7号 2000/07/30

ふーしゃんの短歌ワールド

☆☆☆☆ 7号 2000年7月30日 by mohyo           ☆☆☆☆☆☆
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☆ ふーしゃんの短歌ワールド                     ☆
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☆ われわれは作品によってみずからの生を証明したいと思う。 □ 宮 柊二 □☆
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☆☆☆☆★☆☆☆☆ ー次号は8月上旬発行予定ー         ☆☆☆☆

◆ 結局人を救えるのは文学だと思う。……… 同僚 S・H 氏

ふーしゃん(母)は短歌結社『多摩』の北原白秋に師事。『コスモス短歌会』故 宮 柊二先生に師事現在にいたる。台北第一高女を経て台北師範卒。小学校教員を数年経験後,軍医であった父との結婚により退職。日本基督教団東京府中教会員。

◆ふーしゃんのうた -花枯れ-

新しき絵馬に埋もれ谷保天神看護婦志望を二枚見つけぬ
年齢より若き頭脳とほめられぬ励まざらめやのこるいのちを
深大寺ナンジャモンジャを5メートル離れて見れば花の帯かな
花枯れのおおむらさきはあわれにて摘みとりてゆく二つかみほど
ただひとり祭りにくれば寂しさのきわまる思ひ群衆のなか
やきそばを一折買ひて石垣に凭れて食みぬ暗がりどころ

■ひゃらのうた ーナメクジー

真っ暗な昼の落雷らんぼうに小渕総理の死を語るまい
殻もたぬナメクジのごとぽつねんと液晶画面にむきあいている
クリントンの沖縄サミット百年も刹那のごとく襃(け)にもどる基地
よく見よと千萱(ちかや)夏草(なつくさ)中城(なかぐすく)夢の葉むらに虫交尾する
人霊は屋根の上(へ)をゆく物語琉球の祖母晴ればれ顕ちぬ

★ まつなおのうた-香り-

テーブルに置かれし林檎若き日の悲しみに似る香り放てり
母の居ます家思ふ時常にして八つ手にかかる雨音聞こゆ
トライアングルのかすかな響き思はせてほっと明るむ枇杷の実ぐ
幼らが壁にとびつき顔を出す仕草にも似て紫陽花の咲く
眼先に波上下して海中に遊びし青空少女期を思う

● mohyo のひとりごと(長文お許しください。)

昭和40年東京オリンピックの翌年私たちは本当にささやかな結婚式を挙げた。
今から思えば最年少の国会議員として若き日の小渕さんがスピーチをしてくださった。定年退職した主人は小渕さんが少し暇になってからにすると12月にお会いできるチャンスがあったのにそのままに先延ばしにして帰宅した。

連れ合いは、群馬に稲門会を作ろうと小渕さんと自転車で一緒に廻ったことがあるらしい。純朴な方だと思ってスピーチを聞いたが声がとうとうとしてさすが議員さんなんだなと言う記憶がある。テレビで良くお疲れもなく外国のみならず国内を巡られると思っていた。連れ合いも元気な方であるが到底及ばないスケジュールをこなされていた。

沖縄サミットで若いときから沖縄に関心をお持ちくださっていたと知って心暖まる思いがした。NHKテレビで沖縄の歓迎の仕方のよい面を述べておられる方があり盛り上がってよかったと思った。小渕夫人の涙も強く印象に残っている。

しかし私は祖母から「女の子は歌舞音曲を習ってはイケナイと言う家訓があった。」と聞いた。父からは「花嫁は美人を貰ってはイケナイと言う言い伝えを破ってお母さんと結婚したんだ。」とも聞いた。首里城で踊るには格式があり日本舞踊のようにシナを作らず能面のような顔をして踊るんだと言うことも聞いた。琉球を守るために男も女もその一生をかけたんだと思う。

中国の使者を迎えるときはその旗を薩摩を迎えるときにはその旗を揚げたんだと思う。日の丸が焼かれたときに私は非常に腹が立った。安全な中で何かにこびているようでたまらなく腹が立った。祖母たちの時代は琉球の行く末をこそ見て旗なんぞ見てはいなかったのではなかったのか。

首里高校がはじめて甲子園に来たとき私は寝転んでテレビを見ていた。首里の名前が呼ばれたとき怒涛のような拍手が起きた。私はショックを受けた。正座していた。皆にとって沖縄はそんなに遠いところなんだと実感した。

この度の首里城での歓迎の踊りも大変明るく清潔で麗しい限りであった。
私が祖母から聞いていたものは琉球のことで沖縄県のことではなかった。
祖母たちはよく「離島の人」という言い方をした。あんな狭いところでまた差別
があるのかと感じていた。沖縄県では新しい情報の発信地であってほしい。あの
位置に沖縄があることから浮かぶ軍艦にされてしまったが21世紀には太平洋のあ
の位置が平和の発信地としてちょうどよい位置になっていてほしい。

小渕前首相のご冥福を心から祈ります。