37号 2004/01/12

ふーしゃんの短歌ワールド

┏☆★☆━━━━━━━━━━━━37号 2004年1月12日 by もひょ ┓
https://www.kokoronouta.net/
★☆★☆★ ふーしゃんの短歌ワールド ★☆★☆★
われわれは作品によってみずからの生を証明したいと思う。□ 宮 柊二 □
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ふーしゃん(母)は短歌結社『多磨』の北原白秋に師事。『コスモス短歌会』 故 宮 柊二先生に師事現在にいたる。台北第一高女を経て台北師範卒。小学校教員を数年経験後,軍医であった父との結婚により退職。日本基督教団東京府中教会員。

□■□ 目次 □■□

短歌  *** 母と弟妹とわたしの歌
エッセイ*** 日光街道を歩く

わたしたちの歌

母糸満冨美子(ふーしゃん)

桃の木はをさな木なれど成長し大きくならむ日待ちをり我は

次女佐野豊子

葬式の花すてられず日々水をかえて咲かせる白ゆりの花

三女松岡尚子

我の元へ戻り来し娘を受け入れて家に積まるるスマップの雑誌

長男JUN

白墨で文字書く音の愁思かな

長女Mohyo

門弟の千里伴ひゆく旅は≪奥の細道≫の5年前なり

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日光街道を歩く 野木~小山

今日は12キロしか歩かなかったのでみんな物足りなかった。10時15分に野木駅を出発して2時30分には小山駅に到着していた。昼食はスーパー駐車場で天気なれど風非常に寒しであった。
今日は芭蕉について少し知った。引率者 釣 洋一先生によると。
松尾芭蕉は寛永二十一年(1644年)伊賀に生まれ幼名を金作、通常を甚七郎、忠右衛門藤七郎などといい、名を宗房(むねふさ)といった。俳号は宗房(そうぼう)桃青(とうせい)といった。
別号に坐興庵(ざきょうあん)栩々斎(くくさい)花桃夭(かとうよう)華桃園(かとうえん)泊船堂(はくせんどう)芭蕉洞 芭蕉庵 風羅坊などがある。
≪芭蕉≫ ≪はせを≫の号は庵号に由来する戯号で、数多く愛用したが、神社・仏閣に奉献するような改まった場合には、桃青・芭蕉桃青・武陵芭蕉散人桃青と署名していた。
若年にして伊賀上野の藤堂藩伊賀支城付の侍大将(知行5000石)藤堂新七郎良精(よしきよ)家に仕え松尾の姓を有していた。身分は料理人であったが、主君の若君藤堂良忠(俳号蝉吟せんぎん)と共に俳諧を嗜むことになった。寛文六年(1666年)蝉吟(せんぎん)の死とともに仕官を退き俳諧に精進した。
江戸に出て上水道工事に携わったりして、職業的な俳諧の道を歩みだし、延宝八年(1680年)『桃青門弟独吟二十歌仙』を刊行して、当代に於ける代表的選者の一人と目されるようになった。

芭蕉の句碑

真言宗地蔵山法音寺
芭蕉翁 道ばたの むくけは 馬に喰われけり  と句碑にあった。

この句碑は安永九庚子年(1780年)仲秋(八月)に今日庵安袋の門人である秋元季叟(=翁)が建てたものである。
釣先生によると多くの緒本には≪道ばたの≫→≪道のべの≫となっているとのことである。
この句は芭蕉が奥の細道の旅にでる5年前貞享元年(1684年)八月、41歳の秋江戸深川の芭蕉庵を出て門人千里を伴って東海道上方への旅『野ざらし紀行』に向かった時につくられたものである。大井川を越えた後 八月二十日過ぎのことで、小夜の中山(静岡県掛川市日坂付近の名所)越えをする前に馬上から詠まれたものである。

この旅は江戸出立以来、九ヶ月にわたる長旅で 人生を旅とする俳諧のはじまりであった。