ふーしゃんの短歌ワールド
┏☆★☆━━━━━━━━━━━21号 2002年8月18日 by もひょ ┓
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★☆★☆★ ふーしゃんの短歌ワールド ★☆★☆★
われわれは作品によってみずからの生を証明したいと思う。□ 宮 柊二 □
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次号は8月下旬予定
ふーしゃん(母)は短歌結社『多磨』の北原白秋に師事。『コスモス短歌会』 故 宮 柊二先生に師事現在にいたる。台北第一高女を経て台北師範卒。小学校教員を数年経験後,軍医であった父との結婚により退職。日本基督教団東京府中教会員。
語れユダ 投稿者 ひゃら
基地のない平和な島にもどれたら沖縄の風アジアにむかう
穴のあく雲ちかづくをかなしめば森に死ぬ日の水草が匂う
同僚に無視されている君おもうビルのガラスのみなひかるとき
語れユダユダこそさびし裏切りのあの夜のさむさ憎む激しさ
綾部市5歳の頃など 投稿者 mohyo
竹ぼうき夜空に振れば止まりたる三匹のホタル草色に光(て)る
雨の朝大きノートを買わむと思ふ自分と向き合ふ歌をつくらな
幼き花 投稿者 まつなお
束ねたる葱を揺らして自転車が我を追い越す川沿ひの道
首垂るる黄の向日葵の幾本に幼なき花も混じりて咲けり
仰向けの蝉を見つけぬベランダにもの言わぬものの生活を思ふ
住民の基本台帳ネットワーク新しき世に不安を覚ゆ
今も続く中東戦争宗教の関わることの根深さを思ふ
孤独をまといて 投稿者 秀子
夫も子も吾の知り得ぬ今日の日の孤独を抱きて夜を迎える
思い切り水圧上げてシャワーする心の澱みを洗い流さむ
足元を蝿を喰わえし蟻が行く孤独をまといてひたすらに行く
隣り家の二階まで延びたる笹の葉の陰くっきりと白壁に揺る
noriさん
孤独という文字が二回出ていますね。
秀子さんでも「孤独」を感じる事って有るんですね。
家族、兄弟姉妹とはいえ、あくまでも個人という集まり、繋がりです。若い頃は考えもしませんでしたが、最近フト「孤独」を感じる時が有ります。
秀子
年を重ねるごとにどうしようもない孤独に陥ることって誰もが経験する事なのでしょうか。
猫を見ても蟻を見てさえもみょうに寂しさを感じてしまいます。
ひゃら
はじめまして。いつも楽しく拝読させていただいています。また、私のうたに、あたたかいメッセージをいただき励まされています。
「孤独」について、noriさんのふかい読みと、秀子さんの解説がありますので、わたしは、表現に触れてみたいと思います。わたしは三首目が、印象的でした。蝿をくわえた蟻がけんめいに巣にはこんでいく。どこか切ない場面です。たぶんわたし達の人生ともかさなるからでしょう。蟻は一匹ですか。「孤独をまとう」ですからそうでしょうね。しかし、もうすこし、ゆっくり考えてみますと、蟻のけんめいな姿に美しさを感じる人もいるでしょう。孤独をまとうためには、それを決定づけることばが必要になります。なかなか難しいですね。わたしでしたら「孤独」をさけて、たとえば下句を「けんこんとして日の照るまひる」など景にするでしょう。
秀子
ひゃらさん、お世話になっております。
ひゃらさんのおっしゃるように孤独という言葉を安易に使いすぎたかと思っていました。深く掘り下げて考えることが苦手で、つい簡単に片付けてしまう悪い癖です。
”乾坤として日の照る真昼”とてもそこまで考えが及びませんでした。情景が目に浮かび素晴らしいです。
貴重なご意見、本当に有難うございました。
今後ともどうぞ宜しくご指導下さいませ。(時々でも)
mohyo
なーんだあ!!!秀子さんたら。良かった良かった。わたしは一日中秀子さんは更年期障害か老人性のうつかもしれないって本気で心配していたんですよ。良かった。私が一番とぼけていたなんて!いつものことだけれどね。ひゃらさんは琉舞と短歌に突進中とのことでなによりですがたまには投稿して下さい。
秀子
mohyoさん、ご心配いただき恐縮です。でもまんざら的外れでもありません、万年更年期障害、軽い鬱状態であることは否めません。
あまりにも小さなものに目が行くと笑う人がいますもの・・(夫)笑
野良猫 投稿者 noriさん
ドッドドウと海鳴り聞こゆ吾が里に六十年の来し方想う
遅々として進まぬ診察順番に待合室に溜め息聞こえゆ
カーテンを開けて庭をば眺むれば日陰を選び野良猫が行く
ひゃら
いつも楽しく拝読させていただいています。一首目、三首目がすきですが、作品としては、二首目が、まとまりがあるとおもいました。
「ドッドドウと海鳴り聞こゆ」「来し方想う」で、六十年の人生が、平明でなかったことが、想像できます。また老年前期になられたのでしょうか、時間がドット速くながれていく、感覚と不安をかんじます。こうした上句と下句をつなぐ三句目「吾が里に」はあいまいです。地名をいれておけば、noriさんを知らない人も楽しめるでしょう。三首目はタイトルになさったように、下句は魅力があります。
しかしそれを導きだすための上句が、説明におわっています。「庭にむくカーテン開ければひっそりと」くらいでいかがでしょう。
秀子
一首二首三首とも好きです。
どの歌も情景がありありと想像できます。
noriさんより先に割り込んで御免なさい、ひゃらさんの言われる”説明”とはよく耳にするのですがなかなか難しく、区別がつきません。
noriさん
ドッドドウと海鳴り聞こゆ 遠州 に六十年の来し方想う
庭にむくカーテン開ければ暑そうに 日陰を選び野良猫が行く
以上に推敲してみました。
mohyo
私がもしこの2首を短歌教室に出したとしたら多分ひゃらさんと同じかもっと強く言われたかもしれません。情景が分かるというより作者が見えないです。
吾が里 とか 遠州 というと広すぎて誰にでも当てはまります。ただ吾が里とか遠州をつかいたいnoriさんの気持ちも分かります。
歌い込んだ人には「吾が里」 「遠州」が使ってあるためにこの一首がありきたりになってしまって残念だと思えるのではないでしょうか。
同じく2首目 日陰を選び野良猫が行くという下句を活かすためにはできるだけ主観を入れない方がすっきりわかると思います。これは直ぐ私も主観を入れるので主観を入れないで情景を歌った方が伝わると言われます。カーテンを開けたらこうだったで31文字ですから眺めたらねという必要が無ければ勿体無いという事ではないでしょうか。
柿木 投稿者 オードリー・テル
与野の妹の家久々に訪ひたれば庭の柿の木塀に届きぬ
手の平の如く葉脈広げつつ妹のさ庭に柿は育ちぬ
俳句で御免 番外編 投稿者 JUN
時は今ライスシャワーや夏館(なつやかた)
華燭の典どかんと梅雨の明けにけり
カリヨンの響く門出や夏の雲
mohyo
華燭の典今日より彼女が糸満綾子で 元 糸満綾子 より糸満綾子は一生私だけの名前だとずっと思って生きてきました。
心のどこかにいつも旧姓が残っていました。同姓同名ってこういう感じなのか。
ひゃら
あの日、遅れてしまい一生のふかくでした。この句を読んでjunさんの思いがわかります。晴れ晴れとした喜びが、伝わってきます。とくに、二句目「どかんと」のつかいかたが、新鮮でした。
あとがき
毎年訪れる同じ海にて。
一昨年、昨年までは手を繋がないと波に挑めなかった子どもたちが今年は勝手にどんどん波間へと駆けていく。
こうして楽になり暇になり寂しくなっていくのか…。
(ゆ)